北本市史 通史編 近代

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第3章 第一次大戦後の新展開

第3節 国民教育体制の拡充

2 青年教育の再編

青年訓練所の設置

写真126 青年訓練所訓練風景

(『石戸小学校80年史』P86より引用)

青年訓練所は、大正十五年(一九二六)四月二十日に公布された青年訓練所令と、その翌日に制定された青年訓練所規程に基づいて各町村に設置され、昭和十年四月一日に公布された青年学校令によって廃止されるまで一〇年間存在した。
先に述(の)べた公民学校とほぼ同時期に、同年齢層の教育機関を設けたのは、第一次大戦後の軍縮に対する軍部の要求をその背景としている。すなわち、軍縮による国防力の減退を補完するには既設の実業補習学校では十分でなく、入営前の勤労青年に対し、軍事訓練を主眼とする教育機関の設立を切望した。こうした軍部の要望を受けて成立したのが青年訓練所である。
青年訓練所令によれば、訓練生はおおむね一六歳から二〇歳までの男子であって、「心身ヲ鍛錬シテ国民タルノ資質ヲ向上」させることを目的とした。訓練の項目(内容)は修身及公民・教練・普通科・職業科とした。この青年訓練所令に基づいて、埼玉県は大正十五年五月二十五日、埼玉県靑年訓練所施設要項を定めた。この「要項」は全六〇条からなる詳細(しょうさい)なものであったが、設置場所公公民学校に併置することを原則とし、小学校にも併設できるとした。訓練の中心をなす教練科は、「心身ヲ鍛練シ堅忍剛毅(けんにんごうき)ノ精神卜規律ヲ重ンシ協同ヲ尚(たっと)フノ習慣ヲ養フ」ことを目的とし、四年間を通して四〇〇時間を下らないものとされた。科目には各個教練、部隊教練、陣中勤務、旗信号、距離測最、軍事講話などがあった。修身及び公民、普通学科(国語・数学・歴史・地理・理科)、職業科(農業・工業・商業のうちから課す)の訓練内容は公民学校とほとんど同じであったから、公民学校に在学する生徒には教練のみを課し、他の訓練項目を免除した。なお、訓練は農閑期、その他生徒の家の生業に支障のない時期に課することを本旨とし、教練はなるべく早朝・夕刻又は昼間に課すように配慮した。
青年訓練所はその名が示すように学校とはいわなかつたため、職員を校長とか教諭とせず、主事及び指導員とした。主事はほとんどが小学校長が兼務し、他の教員の多くは指導員となって普通科などの教育に当たり、教練の指導には在郷軍人などを特別指導員として委嘱(いしょく)した。これにより壮丁検査前の勤労青年は、公民学校と青年訓練所の二つの機関で公民教育・職業教育・軍事教育を主内容とする補習教育を受けることとなった。いつの時代にも青年は国家・社会の安全と発展に重要な役割を果たしてきたが、普通選挙の実施、第一次大戦後の軍縮による国防カ減退の補完、農業生産力の増大という重大な局面に立って、政府は青年に対して改めて日本国民として、生産者として、兵員としての訓練を強く要請したわけである。
ところで、市域には二つの青年訓練所が設けられた。石戸村と中丸村である。青年訓練所令が施行されたのは大正十五年(一九二六)七月一日であるが、その日に埼玉県下には公立三七七、私立三、計三八〇の青年訓練所が誕生した(『埼玉県統計書』P七八 大正十五年)。石戸・中丸両青年訓練所もその日に開所された。それは規則通り公民学校に併設され、訓練期間は四か年、一六歳から二〇歳までの青年男子をその対象とした。訓練時数は「四年ヲ通シテ修身及公民科百時教練四百時普通科二百時職業科百時ヲ下ラサルモノトス」(「中丸村立青年訓練所規則」近代№ー二六)と規定され、教練に全訓練時間の半分が充(あ)てられた。かくして青年訓練所の修了者は、徴兵について半年間の在営期間短縮の資格(恩典)が与えられた。なお、「本訓練所ノ年次ハー月一日ニ始マリ十二月三十一日ニ終ル」(前掲書)という独特の学年暦を採用した。訓練は主に冬期農閑期に行われたが、なかでもその中心をなす教練の指導が盛んに行われ、毎年十一月には中丸・石戸・常光各村の青年訓練所の生徒は、合同で日頃の訓練の成果を発表し、現役軍人の査閲(さえつ)を受けたという(『中丸小学校八〇年史』P一四六)。訓練生の数は詳(つまびら)かではないが、石戸の場合昭和九年において一年生一九名、二年生一七名、三年生九名、四年生九名、計五四名と報告されている(『石戸小学校六〇年史』P七七)。

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