北本市史 通史編 近代

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第4章 十五年戦争下の村とくらし

第2節 食糧増産と経済の統制

1 食糧増産と供出

軍用農作物の供出
石戸村においては、昭和十二年十二月三日、村長から各区長宛に軍用大麦供出に関する件の通達(石戸村 五九八)が出されている。これは県から出された供出に関する調査について協議をするため、翌日村役場で会合を開くことを連絡し、そこに出席を要請する通知であった。
軍部の供出大麦の買い上げ代金は、貨車積み上げ相場を基準として、三等が標準で一俵七円五十四銭、一等・二等は一俵につき十銭上げ、四等は一俵につき十五銭下げ、そのほか等外は一俵につき四十銭下げるものとされた。また、軍部供出の出荷までの費用は、信用組合が七銭差し引いていた。その内訳は、貨車積み込み代が二銭六厘、検査人夫賃が二銭、組合手数料が二銭四厘というものであった。
ほかに軍用農作物の供出を表わす資料として、石戸村農会文書の中に、北足立郡農会から石戸村農会宛に出された同十三年一月の軍部納入兎毛皮出荷に関する記録が残っている。この中で、兎の毛皮が熊谷市大里郡農会で現地購入の形になったことが記され、その納入方法についても詳細に報告されている。梱包(こんぽう)は白・雑色にわけ、大・中・小に三別し、一梱(こり)五十枚としていた。毛面は毛面に、皮面は皮面に合わせ緊縛(きんぱく)し、皮面には「埼い 貴方番号」を記入する指示までしていた。このことは軍部に納入する兎が、農会の指導により農会を介して出荷されていたことを示している。
兎の毛皮については、上手会館建設及び敷地の由来碑(近代No.一六二)の中に、昭和十年の不況時に、「農家経済をたてなおさん」との意気込みで、当時の農家組合長が養兎の副業化を奨励したことを伝えている。この由来碑によれば、組合員の勤労奉仕によって養兎加工場を建設し、製肉・毛皮を共同販売し、農家経済の振興を図り、事業が軌道にのったという。しかしこの養兎事業も、終戦とともに中止になった。このほか、同十三年十月十二日に北足立郡農会から石戸村農会宛に出された通達から、石戸農会が軍用干し草を供出していたことがわかる(長島元重家 三十八)。この通達には最近の供出品の中に不合格品があり、返送されることが多いため照会したところ、干し草調整後、そのまま、または梱包したまま産地に永く保留したことによって、干し草が悪化しているとのことであった。このため従来納入したと同程度のものも不合格になることもあり、十分に調査し、日干し調整のうえ梱包輸送することに注意を払うことを指示している。万一不合格の場合は、再入手し、保管することが記されている。今後供出する数量を折り返し回答することの依頼も行っている。
また、徴発(ちょうはつ)あるいは購買された軍馬が、第一線において奮闘していることを記し、寒冷の増した時期には青草も絶無となり、干し草の供出の重要性を指摘して業務の達成を促している。

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