北本市史 通史編 近代

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第4章 十五年戦争下の村とくらし

第2節 食糧増産と経済の統制

2 産業組合から農業会へ

農業諸団体の統合
従来農村には、購買・販売・作業などを共同して行うことや、農事視察・納税督励などを自主的に行う農家小組合が存在していた。また、家畜・養鶏・園芸・出荷・貯畜などの特定の事業を行う農家小組合も存在していた。これらの組合は農山漁村経済更生運動のもとで、徐々に整理統合化がはかられ、昭和七年の産業組合法の改正により、農事実行組合の法人化が認められ、産業組合の下部組織として整備されていった。
埼玉県では昭和十四年九月に、各市町村農会長に対して、農事小団体改組拡充の通逹を発している(『県史通史編六』P九三六)。農事小団体は、農家古来の美風としての「隣保共助(りんぽきょうじょ)の精神」を基調とする部落共同体であり、農村における産業経済の発展に貢献したものと認め、その固有の長所に深く着眼留意したうえで、小団体の拡充強化をはかろうとした。産業組合法改正による法人化は、そのような理由のもとで行われた。その後、戦争の長期化にともない、銃後(じゅうご)農村の各種対策を実施するため、農事小団体を農事実行組合に改組・拡充して、銃後国策に即応しようとした。
太平洋戦争下の昭和十八年三月、食糧増産や農業部門の総力を結集するとともに、分立した農業諸団体の統合をはかるため、農業団体法が公布された。それまでの農会、産業組合、畜産組合、茶業組合、養蚕組合の五つの団体は一つに統合され、農業における供出・配給・生産統制・労働力統制のための全国的統制機関として、農業会が結成された。中央には、指導機関として中央農業会、経済機関として全国農業経済会、金融機関として農林中央金庫が設立され、続いて道府県農業会及び市町村農業会も設立された。
農業会結成当時の様子は、昭和十八年四月二十二日付の『埼玉新聞』(『県史資料編二十二』No.一一五)によって知ることができる。すなわち農業会は、決戦下唯一の農業団体として発足したもので、「官民一如(いちにょ)」の農村決戦体制確立を期し、既存団体の力をより有機的に、効果的に綜合発揮するものとして設立されたものである。戦時下における農村の重大使命を担うものとして、清新強力な団体として組織しなければ統合の趣旨を失うことになるので、複雑に入り組む農村内の関係を考慮し、統合の際に起こり得る役員問題等での紛争が起こらないよう戒めてさえいた。また、農業会の設立は、「皇国農村確立運動」、「食糧確保」、「貯蓄の増強」等の三大目標の達成を推進するものであった。
農会や産業組合等が統合して設立された新農業団体としての農業会が、「国策協力機関」になるためには、市町村との摩擦(まさつ)が生じることを避けなければならず、農業会設立のために地方自治をかえって乱すことのないように指導方針を統一していた。同年十二月七日付の『埼玉新聞』(『県史資料編二十二』No.一一六)によると、県では市町村農業会設立の指示事項を発表した。県の指示した指示事項の概要は、次のとおりである。
・市町村農業会の設立は、市町村それぞれに事情が異なるため、設立時期は一律にすることは困難であり、明年の二月末日までに完了するものとする。
・農業会に統合する団体は、市町村農会、産業組合、畜産組合、市町村区域の養蚕実行組合とする。
・設立委員は五、六名程度にする。
・農業会の地区は原則として、市町村の区域によって指定する。
・会員は、農業に密接に関係するものとする。地区内一般居住者も既存諸組合の実情及び農村の実情に即して判断する。農村または農村に準じる地区においては、従来通り全戸加入とする。
・市町村農業会と市街地信用組合との事業上の摩擦が生じないように調整を執8と)ることとする。
・農業会の役員の推薦または選任については万全を期す。会長の推薦は、団体員の総意を反映するように特に留意する。

県農政課では、十二月七日以降、県内七か所に課員を派遣して、農業会設立協議会を開催し、設立に対して積極的な行動をとった。県下では二月末日までには設立完了することが予期されていた。

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