北本市史 通史編 近代

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第4章 十五年戦争下の村とくらし

第3節 太平洋戦争と教育

1 国民学校の誕生と教育

国民学校の誕生と教育体制の刷新
教育審議会(昭和十二年十二月、内閣直属の教育諮問(しもん)機関として設置)の国民学校に関する答申(昭和十三年十二月八日)に基づいて、昭和十六年三月一日に国民学校令が、同月十四日に国民学校令施行規則が公布され、四月一日から全国一斉に実施された。その結果、北本市域に存在した石戸・中丸の二つの尋常高等小学校は、それぞれ校名を国民学校と改祢した。
小学校に代わる国民学校の成立は、単なる名称の変更ではなく、制度・内容・方法等初等教育の全般にわたる大きな改革であって、時の文相橋田邦彦の言葉を借りれば、「未曾有(みぞうう)ノ世局ニ際会」して、「名実共ニ国民教育ノ面目ヲ一新」(昭和十六年三月二十九日、文部省訓令第九号「国民学校令施行規則」制定ノ要旨)しようとしたものであった。「未曾有ノ世局」とは満州事変以後の時局、とくに非常時体制から準戦時体制へ、そして戦時体制へと向かう国内体制の動向を指している。つまり、昭和ファシズム体制への移行に合わせて国民教育を刷新することが国民学校の眼目であった。
国民学校令において注目されることは、第一に教育の目的である。従来、「小学校ハ児童身体ノ発達ニ留意シテ道徳教育及国民教育ノ基礎並其生活ニ必須(ひっす)ナル知識技能ヲ授クルヲ以テ本旨トス」という第二次小学校令(明治二十三年)の目的規定を適用してきたが、半世紀ぶりにそれを改定し、「国民学校ハ皇国ノ道ニ則りテ初等普通教育ヲ施(ほどこ)シ国民ノ基礎的錬成ヲ為スヲ以テ目的トス」(第一条)とした。「皇国ノ道ニ則」るということは、単に国民学校だけの独自目的ではなく、戦時下の教育全体を貫くバックボーンであった。初等教育機関としての国民学校は、教育の最高原理である「皇国ノ道」によって、「国民ノ基礎的錬成ヲ為ス」ところとされた。その場合、「皇国ノ道」とは、教育勅語(ちょくご)に示された「斯(こ)ノ道」とされ、それは「国体の精華(せいか)と臣民の守るべき道との全体」を指し、端的(たんてき)にいえば、「皇運扶翼(ふよく)の道」である、と解された(文部省普通学務局偏『国民学校制度に関する解説』)。
第二は、初等教育の内容が「皇国ノ道」に則(のっと)って再編制されたことである。従来の小学校の教科を再編成するに当たって、皇国民としての必要な資質を
(1)国民精神を体認し、国体に対する確乎(かっこ)たる信念を有し、皇国の使命に対する自覚を有していること。
(2)透徹(とうてつ)せる理知的能力を有し、合理創造の精神を体得し、以て国運の進展に貢献し得ること。
(3)闊達(かったつ)剛健なる心身と献身奉公の実践力とを有していること。
(4)高雅な情操と芸術的技能的な表現力を有し、国民生活を充実する力を有すること。
(5)産業の国家的意義を明らかにし勤労を愛好し、職業報国の実践力を有していること。

(文部省普通学務局偏「国民学校制度ニ関スル解説」


図20 国民学校教科編成

(文部省『学制八〇年史』より引用)

の五つに分け、このような資質を養成するための内容を、各資質に対応させて国民科・理数科・体錬科・芸能科及び実業科(高等科)の五教科に編制した。そして、五教科の含む多様な内容をその性質と目的とに応じて組織し、教科の部分目的を達成させるものを科目として設定した。したがって、一教科に属する各科目は当該教科の有機的な分節であって、それぞれ固有の系統と価値をもちながら、その教科に統合され、相互に連関して教科の目的を達するのである。例えば、国民科には修身・国語・国史・地理の四科目が立てられ、それらの科目はそれぞれの部分的・直接的目的をもってはいるが、いずれも国体の精華を明らかにして国民精神を涵養(かんよう)し、皇国の使命を自覚させること、という国民科の目的に統轄されている。
このように国民学校では、従来の小学校教科の統合が行われ、一応形式的には広域カリキュラムが採用され、教科課程の編制上画期的なものであったといえる。しかし、それは「皇国民の錬成」という最高原理を、内容的に具体化するための効果的な手段として採(と)られたに止まるのであった。
第三は、教育目的を具体化する方法として「錬成」ということが強調されたことである。明治以来の我が国の近代学校史の上で、教育を目的とせず、「錬成」を目的として掲げたのは、これが初めてであって、戦争という異常な状況の下に登場したものである。したがって、「錬成」という語は教育用語としてはなじみのない語であるが、文部省はこれは「錬磨育成(れんまいくせい)」の意であるとし、「被教育者の陶冶性(とうやせい)を出発点とし、皇国の道に則(のっと)りて、児童の内面よりのカの限り、即ち全能力を正しい目標に集中せしめて、国民的性格を育成強化することである。換言すれば、児童の全能力を錬磨し、体力・思想・感情・意志等、児童の精神及び身体を全一的国民的に育成すること」(倉林源太郎『国民学校教則案の総論』「文部省国民学校教則案説明容量及解説」)と定義された。したがって、児童本位の教育や自由主義・個人主義の教育は、非国民的教育として排除され、知識の詰(つ)め込み主義教育も児童の全能力の錬磨に違(たがう)うものとみなされた。
また、「基礎的錬成」とは、「錬成の程度を示したもので、国民学校の教育はそれ自身完成教育でありながら、同時に将来の教育の基礎であり、生涯持続さるべき自己修養の根幹であるから、自奮自励(じふんじれい)の習慣と、自彊不息(じきょうふそく)の精神の鼓舞(こぶ)とは特に重視すべきである」(前同書)と説明された。
なお、国民学校においては、教授・訓育・養護(身体の養護と鍛錬)の分離をさけ、国民として統一した人格を形成するため、教育上特に次の点に留意した。
(1)知識技能の学習は、同時にそれが「行(ぎょう)」であり訓練であるように取り扱い、あるいは「行」としての学習であるように教授すること。
(2)作業を重んじ実践を通して知徳を養うことに努めること。
(3)学校の全生活を通じて躾(しつけ)を重んじ、自主的に善良な習慣を体得させること。
(4)儀式及び学校行事等を重んじ、これを教科と合わせて一体とし、教育の実を挙げることに努めること。
(5)学校と家庭及び社会との連絡を緊密(きんみつ)にし、児童の教育を全(まっと)うすることに努めること。

こうして国民学校は皇国民錬成の場として、「行」「型」「国体訓練」等がその方法として重視された。
このような国民学校制度にしたがって石戸・中丸の二つの尋常高等小学校は、昭和十六年四月一日よりそれぞれ国民学校となり、初等科六年、高等科二年の計八か年が義務教育となった。義務教育を六年からさらに延長することは三十余年にわたる多年の懸案(けんあん)であったが、国民学校制度の成立によってその懸案が解決され、ここに八年制義務教育が実現を見たわけである。しかし、財政・設備等の都合からその実施が延期され、昭和十九年度からとされた。その間、太平洋戦争は激化の一途をたどり決戦非常時体制に入ったため、八年制義務教育は条文上の定めに止まり、ついに実施を見ずに終わった。

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