北本市史 通史編 近代

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第4章 十五年戦争下の村とくらし

第3節 太平洋戦争と教育

1 国民学校の誕生と教育

修身教育の手本、二 宮 金 次 郎

写真152 二宮金次郎

(『石戸小学校60年史』P5より引用)

昭和十六年に国民学校が誕生したころ、その校庭(多くの場合、校舎中央の玄関附近)に薪(たきぎ)を背負って読書する二宮金次郎像が存在した。この像は内務省が主導した国民更生運動における理想的国民像として、同省のてこ入れで各町村住民(篤志家(とくしか))の寄附金によって建てられたものである。歴史の古い小学校の校庭の片隅には、今もその姿を見ることができる。平成四年一月二十日の『埼玉新聞』には、群馬県伊勢崎市の一会社員が一年半がかりで埼玉県下の小学校にある金次郎像を調査した結果が第一面に大きく報じられているが、それによると二一四校に現存している。そして、建立年月日の分かった一四五校のうち一二四校の金次郎像が昭和十年代に造られており、現存する金次郎像のそのほとんどがセメント像または石像であって、戦前の銅像は一つもなかったという。その理由を調査に当たった我妻考一は「昭和六年ごろ、銅像の金次郎像造りがブームになるのですが、戦争に必要な鉄砲の弾(たま)にするために供出されてしまった。痛ましいというのでセメントで大量生産された金次郎像が建てられた」と分析している。勤険カ行(きんけんりっこう)のモデルとされた金次郎像も戦争協力を強(し)いられたわけであるが、これは決戦下において「忠」がすべての徳に優先したことを示すものと理解してよいだろう。
太平洋戦争末期に金次郎の銅像が供出されたことは事実であるが、それによって彼が修身教育の手本の座をまったく失ったわけではない。彼は「紫(しば)刈り縄(なわ)ない草鞋(わらじ)を作り/親の手助け 弟を世話し/兄弟仲よく孝行つくす/手本は二宮金次郎」と歌われ、長く修身教育の手本にまつりあげられた。したがって、彼は昭和戦前期だけではなく、明治・大正・昭和の国定教科書時代の全期をとおして模範的人物の代表として登場した。五期にわたる国定修身教科書にあらわれた人物のうち、明治天皇を除けば、最も多くの課にとりあげられているのは、二宮金次郎である。彼は「孝行」「勤勉」「学問」等の課を中心に登場しており、国定五期を通じて十八課に取り上げられている。それは一言でいえば、政府の国民==臣民教化政策、とくに国民の大多数を占める農民階層の教化に彼の教えである報徳思想がきわめて便利であったからである。しかも、その彼は勤検カ行によって貧困から立ち上がり、立身出世した立志伝中の人々の代表者であり、「父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ」と教えられた教育勅語の生きたモデルであり、その意味において「臣民の道」を実践した模範的人物とみなされた。二宮金次郎の教材は、第五期の太平洋戦争期になると、題目も「一粒の米」となり、内容も単に勤検カ行、立身出世ということではなく、「家をおこし、国をさかんにするには、心をゆるめないではたらかなければならない。」というように、国との結びつきを強める配慮がなされた。
このように二宮金次郎は、時勢の変化の中でモデルの内容や力点をかえながら国民==臣民教育の具体的指導目標として生きつづけた。明治・大正・昭和前期の子どもたちにとって、教科書は彼らが始めから最後まで読む数少ない書物の一つであっただけに、二宮金次郎が教科書をとおして近代日本人の精神形成に果たした役割は大きいといわなければならないだろう。
なお、石戸小学校にはセメントで造られたニ宮金次郎像(高さ九十センチメートル)が現存している。が、これは日中戦争が勃発(ぼっぱつ)して間もない昭和十二年十月に本校卒業生によって開校二十五周年記念として建てられたものである。像の台座の正面には勤検カ行(きんけんりっこう)の文字が刻まれている。建立時には校舎正面玄関の右隣りの校舎前に建っていた。まさに学校を代表する教育シンボルの一つであった。

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