北本市史 通史編 近代

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第4章 十五年戦争下の村とくらし

第3節 太平洋戦争と教育

1 国民学校の誕生と教育

奉安殿の建設
すでに前項で述べたように、国民学校時代にはその校庭の一角に二宮金次郎像が修身教育のシンボルとして置かれる場合が多かったが、大抵、もう一つの教育シンボルが存在した。奉安殿である。
奉安殿というのは、天皇・皇后の公式肖像写真である御真影(ごしんえい)と教育勅語などの詔書類を収蔵する保管庫であって、学校施設の中では最も神聖な場所とされた。火災などの災難から御真影や教育勅語を守護するために、奉安殿は校舎から離して校庭の一角に建設された。早い例では、明治末期に石造りあるいは土蔵造りで建設するケースもみられたが、一般的には鉄筋コンクリート工法が地方に普及した一九二〇年代から三十年代にかけてであった。埼玉県の場合もその例外ではなく、県下各地・各校での奉安殿の建設はその時期に集中している。とくに、十五年戦争が始まる前後からは、神がかりのファシズム風潮にのって「神社造り」が流行した。
北本市域の学校についてみると、石戸村では昭和九年八月、皇太子殿下降誕(こうたん)記念事業として石戸尋常高等小学校校庭に奉安殿を建設することとし、同月八日矢部次郎村長は村議会に「奉安殿建設ノ件」を提出した「議案綴」(石戸村 二一五 昭和九年)。には、その工事仕様書などが収録されていないので設計の細部についてはわからないが、造りは写真153から知られるように神明造りである。工事は順調に進み、同年十一月二十三日に盛大に落成式を挙行した。その様子を翌二十四日の『東京日日新聞』埼玉版は、「奉安殿落成祝賀会は快晴の廿三日午前十時から同村小学校で盛大に挙行、式場に小学校生徒、分会員、青訓、男女青年団、村議、その他有力者、千余名参列、田島村長の式辞、来賓の祝辞等があり、終わって午後一時から軍事講演会並に剣道大会あり、盛会裡(せいかいり)に午後五時ごろ散会した」と報じている。奉安殿建設委員長大澤慶廣から報告された「御影奉安殿建築費収支決算書」(石戸村 三十二)によれば、その明細は次のとおりであって、建築費はすべて寄附金によって賄われた。

写真153 奉安殿

(『石戸小学校60年史』P79より引用)

写真154 奉安殿落成祝賀会

(『石戸小学校60年史』P6より引用)

収入の部
寄附金
一金壹千四百七十四円七十一銭 村内一般者
一金壹百円也         石戸信販講利(ママ)組合
一金五拾円也         本村教育会
一金五拾円也         同軍人分会
一金四拾五円也        同農友会
一金二拾円也         同男青年団
一金八拾円也         野原金庫店
一金壹百円也         田島長蔵氏
一金七拾八円七拾五銭     矢部次郎氏
一金壹百七拾八円七拾五銭   大澤慶廣氏
一金壹百円也         造園村費補助
一金貳百七円五拾銭      小島業三郎氏
合計金貳千四百八拾四円七拾壹銭
支出の部
一金壹千参百四拾五円也    奉安殿建築費
一金貳百五拾円也       同奉安金庫代
一金壹百円也         国旗掲揚台
一金参拾貳円也        諸職人祝儀
一金壹百壹円六拾四銭     庭園費
一金参拾円也         奉安殿設計費
一金貳拾円貳拾九銭      地鎮祭 落成式祈願諸費
一金五百五拾四円六拾八銭   落成式諸費
一金五拾壹円拾銭       諸雜費
計金貳千四百八拾四円七十一銭
収支差引残金ナシ

一方、中丸村でも奉安殿の建設が行われた。本村の場合は石戸村が皇太子降誕(こうたん)記念事業であったのに対して、紀元二六〇〇年記念事業として計画された。加藤栄一村長が村会議員、区長、学務委員、小学校長、青年団長、分会長等を召集して奉安殿の建設について初会合を開いたのは昭和十五年十一月三十日であった(加藤一男 四十五 御影奉安殿建設関係書)。建設計画は直ちに承認され、早速村内大字ごとに建設費の寄附金集めが開始された。それは戸数割・個数割によって各戸に割り当てて徴収する集金方式が採(と)られた。加藤一男家には、その時の寄附連名簿が残されている。

写真155 奉安殿竣工記念式

(『中丸小学校80年史』P157より引用)

建設費の寄附金集めを進める一方、加藤村長は昭和十六年一月二十日、正式に「御影(ぎょえい)并勅語謄本(とうほん)奉置所建設ノ義申請」(前同書)を宮野県知事に提出した。この申請は二月十四日に認可され、直ちに工事に着手し、同年十一月に落成した。写真155は奉安殿竣工記念写真であるが、工事仕様書によれば、桁行六尺、梁間五尺で「木造建神明造り屋根トタン葺」、この坪数〇.八三三坪となっている。前項でも述べたように、太平洋戦争下において金属類の供出が強力に行われた際、二宮金次郎の銅像はそのほとんどが供出されてしまったが、奉安殿の鉄鋼工作は供出されるようなことはなかった。天皇・皇后のお姿である御真影(ごしんえい)と天皇のお言葉である教育勅語などを収蔵する保管庫としての奉安殿は、現人神(あらひとがみ)と崇(あが)められた天皇の分身を守護する施設なるが故に、供出の対象物件とならず、戦火からのがれたものは原形のまま終戦を迎えた。
に提出した。この申請は二月十四日に認可され、直ちに工事に着手し、同年十一月に落成した。写真155は奉安殿竣工記念写真であるが、工事仕様書によれば、桁行六尺、梁間五尺で「木造建神明造り屋根トタン葺」、この坪数〇.八三三坪となっている。前項でも述べたように、太平洋戦争下において金属類の供出が強力に行われた際、二宮金次郎の銅像はそのほとんどが供出されてしまったが、奉安殿の鉄鋼工作は供出されるようなことはなかった。天皇・皇后のお姿である御真影(ごしんえい)と天皇のお言葉である教育勅語などを収蔵する保管庫としての奉安殿は、現人神(あらひとがみ)と崇(あが)められた天皇の分身を守護する施設なるが故に、供出の対象物件とならず、戦火からのがれたものは原形のまま終戦を迎えた。
しかし、敗戦によって国家価値が崩壊すると、御真影は返還され、学校からその姿を消した。昭和二十一年七月十八日には「御真影奉安殿の撤去について」(『県史資料編二十六』No.二〇〇)(県教育民生部長発)の通達があり、天皇制教育の一大シンボルとしての奉安殿は撤去されることとなった。その際、取りこわして廃棄するか、移築(神社ないし寺院へ)するか、いずれかの方法が採られたが、石戸・中丸両村とも移築する方法を採った。すなわち、石戸国民学校の奉安殿は八雲神社本殿として、中丸国民学校のそれは北本宿の天神社本殿として移築された。

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