北本市史 通史編 近代

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第4章 十五年戦争下の村とくらし

第3節 太平洋戦争と教育

1 国民学校の誕生と教育

神社参拝と宮城遙拝(きゅうじょうようはい)
遠く大正十年前後から始まり、日中戦争から太平洋戦争にかけて盛んに行われた学校行事の一つに神社参拝や宮城遙拝などがある。とくに国民学校においては、これらは皇国民錬成の一環(いっかん)として重視され、戦争が激化し戦況が悪化してくるにつれて学童の大事な日課となった。
ところで、太平洋戦争期にしきりに行われた神社参拝は、昭和初期を舞台に展開された国民更生運動の一事業として、広く県下各町村で行われた(国民更正運動実施概況 昭和九年・埼玉県)が、市域の石戸村・中丸村の場合は、すでに大正十年前後から行われたことが知られる。すなわち、中丸尋常高等小学校の『校務日誌』をみると、大正九年(一九二〇)十月十五日の記事に、「村社氷川神の例祭に付尋四、五の児童引率参拝せり」とある。以後、毎年村社の例祭には児童を引率して参拝したようであって、同十五年十月十五日にも同様の記事が見られる。
また、大正末年ごろから遙拝も行われた。大正十五年五月二十一日の石戸尋常高等小学校の『教員会議録』(石戸小学校 十)には、次のように記されている。
一遙拝ニツイテ
1 何処ヲ遙拝スルカヲ徹底サセル
 西・・・伊勢神宮、橿原(かしはら)神宮、桃山御陵(ごりょう)
 南・・・宮城、明治神宮
2 精神、形式両方面共体得セシム
3 遅刻者ニモ遙拝ヲナサシム

昭和十二年七月、日中戦争が勃発(ぼっぱつ)すると、政府は国民精神総動員運動をおこし、訓育においてとくに尊王愛国、敬神崇祖の精神を発揚することを強調し、「之(これ)が為めには奉安殿に対する奉拝は勿論(もちろん)、宮城の遙拝を実施せしむることによりて尊王愛国の念を養ひ、国民的信念を固くせしむることは時局に鑑(かんが)み一層緊要(きんよう)であり、又(また)地方に於(お)ける氏神や陵墓(りょうぼ)等の参拝又は其の清掃奉仕等をなさしむることも望ましく、特に此(こ)の際皇威宣揚(せんよう)武運長久を祈願せしむることも適当なることである。従来の教育に於てもかゝる点に留意せられて居ることは言を俟(ま)たないが、此の時局に際してかゝる施設又は行事を一層全(まっと)うすることは、児童をして真に国体観念を明徴ならしめ国民精神を発揚せしむることが出来るのである。(中略)而してこれらの行事又は施設は形式的になさるべきではなく、真に感謝感激の裡(うち)になさるゝ様其の指導に留意」(国民精神総動員資料『国民精神総動員と小学校教育)』すべきであるとした。神社参拝の本旨である「敬神崇祖」の思想は、国定修身教科書を通じてもその徹底がはかられた。
こうした状況のなかで、「敬神崇祖」を通じての国体観念涵養(かんよう)のための神社参拝は、一大国民的行事として全国の学校で行われた。日中戦争以後、神社参拝の頻度もしだいに多くなり、職員は率先して神社参拝の指導を行うことが要請された(前掲『教員会議録』石戸小学校 十)。さらに、太平洋戦争が激化の一途をたどり、戦況が悪化の様相をきたすと、苦しい時の神頼み的心理も加わって、参拝の頻度(ひんど)はますますふえ、祭政教一致の体制が一段と強化された。また、現人神(あらひとがみ)の居城である宮城に対して遙拝(ようはい)(最敬礼)することも学校の日課となった。『中丸小学校八十年史』には「毎朝朝会時に赤心をこめて一斉に宮城を遙拝する」ことが「日々の行事」として行われたことが明記されている。

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