北本市史 通史編 近代

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第4章 十五年戦争下の村とくらし

第1節 十五年戦争下の村政

1 経済更生運動と村政

自力更生運動と市域の対応
しかし、これらの政策では疲弊(ひへい)した恐慌下の農村を救済するのに十分ではなかった。そこでこれらの恐慌救済策を補強する役割を担って登場したのが、時局匡救事業の一翼(いちよく)をなす農村経済更生計画による自力更生運動であった。昭和七年農林省は経済更生部を新設し、農山漁村経済更生運動にあたることになつた。同年十二月には農山漁村経済更生に関する農林省訓令が出された。そこには、「産業組合の刷新(さっしん)普及」をはかって、これを農村経済更生計画の実行機関として位置づけ、「国有の美風たる隣保共助(りんぽきょうじょ))の精神」を活用し、「堅実適切なる計画の樹立実行」をなしうる「中心人物」の獲得につとめ、「精神教化運動との連絡協調」を密にし「農山漁村に於ける産業及び経済の計画的且(かつ)組織的刷新(さっしん)」をはかるというものであった。埼玉県はこれを受けて農山村経済更生委員会(会長は知事広瀬久忠)を発足させ、昭和七年に三十か町村、八年度には三十五か村、九年度には三十一か村、十年度二十四か村、十一年度三十二か村の計一五二か町村を指定した(『県史通史編六』P四九九)。
市域においても農業恐慌の影響は大きく、米価や繭価(まゆか)の下落が農家経済を苦しめた。時局匡救(きょうきゅう)事業として荒川の河川改修が行われ、農家の現金収入の一助となった。昭和八年には、石戸村で農村振興土木事業費並びに農業土木事業費支弁のための起債(きさい)が行われた。石戸村は昭和七年度の経済更生計画を提出し、県内三十か町村の選定に入った。それによると主として次の事項が計画された(近代No.六十六)。
まず、
(一)
経営改善計画として生糸(きいと)価格の暴落という現実を受けて、桑園の三割を整理して畑地に転換し、適地適作物の栽培をすること。宅地には柿や栗を植えて収入を緩和(かんわ)安定すること。豚や鶏・兎の有畜農業をすすめ、耕牛馬は倍数にすること。自給肥料を増産すること。水陸稲の増産、未墾地を開墾して甘藷十三町歩、馬鈴薯六町歩をそれぞれ栽培すること。

(二)
生産統制計画として、園芸農産物の増産と契約販売を推進すること。「石戸トマト」としてその名を全国に知られたトマトの増産と加工処理の推進。養蚕では平均十七貫の収繭額(しゅうけんがく)を反当たり二十三貫に増産すれば、百町の桑園で充分であるから、総面積の三割を整理して収葉量を増加させること。製茶では日蔭地(ひかげち)等を利用して増産し、機械化の導入をはかるというものであった。

(三)
販売購買統制計画は、販売については産業組合・農会・農業組合等が協力してこれを行うこと。また、本村金肥消費額ニ万五〇〇〇円余の半額を五か年計画で減らすこと。

(四)
食糧・畜産品・燃料等を自給するため生活改善をはかること。

(五)
信用組合において貯蓄をすすめて農村資金の流失を防ぐこと。

(六)
村内の余剰労働力を利用して資金化すること。


写真134 帝国農会のビラ

(加藤一男家 40)

以上が計画の大要であるが、一見してわかるように、政府や県が何らかの財政的制度的保障をするのではなく、前提として各町村の自力更生という精神的側面の強調に終始し、農民生活の切り詰めと労働強化をこの更生計画のもとに組織的に推進することが大きなねらいであった。この計画の中にも盛られているが、更生運動の実行機関として位置づけられた産業組合は、昭和七年四月、産業組合拡充五か年計画が決定されるとそれをうけて、翌八年から全国的に展開された。その内容は全国に産業組合のない農村をなくすこと、区域内のすべての農民を組合員にすること、信用・販売・購買・利用の四種兼営とすること、農事実行組合を加入させ上級系統機関の利用をはかること、などであった。市域においても「石戸トマ卜」をはじめ、茶業、甘藷などにおいて生産の拡大・販売等が推進された。中丸村にも、昭和十二年度の経済更生計画樹立村となった。
このように農業恐慌による農村疲弊(ひへい)に対して種々の対策がとられたが、充分な効果をあげないうちに日本は昭和六年柳条湖(りゅうじょうこ)事件をきっかけに満州事変に突入した。戦争の勃発(ぼっぱつ)により軍事費は拡大し、時局匡救(きょうきゅう)事業費は昭和九年までの三年間で打ち切られた。

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