北本市史 通史編 近代

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第4章 十五年戦争下の村とくらし

第3節 太平洋戦争と教育

2 青年教育の再編成

青年学校の成立と義務制
青年学校は、明治二十六年(一八九三)以来の歴史をもつ実業補習学校(本県は大正十三年、公民学校に改組)と、大正十五年(一九二六)に軍事訓練を主目的として設置された青年訓練所とが合併して、昭和十年四月一日に誕生した勤労青年の学校である。青年学校令と同時に出された文部省訓令(『埼玉県教育史第五巻』P四二七)は、その趣旨を次のように説明している。
青年学校ハ小学校卒業後直(ただち)ニ社会ノ実務ニ従事スル男女大衆青年ニ対シテ普(あまね)ク教育ノ機会ヲ与(あた)フルト共ニ青年教育上最モ重要ナル時期ニ於テ其ノ教養ニ間隙(かんげき)ナカラシメンコトヲ期スルモノニシテ其ノ教育ノ本旨ハ従前ノ実業補習教育及青年訓練ノ特質ヲ融合シテ心身ノ鍛錬及徳性ノ涵養(かんよう)卜職業其ノ他実際生活ニ須要(しゅよう)ナル知識技能ノ修得トヲ主眼トシテ教授及訓練ヲ為シ以テ健全ナル国民善良ナル公民タルノ素地ヲ育成スルニアリ而シテ此等男女青年ハ概(おおむ)ネ余暇ニ於テ修学スルモノナルニ付学校ノ組織内容ハ通常ノ学校ニ比シテ著(いちじる)シク簡易自由ヲ旨トシ以テ地方ノ情況、青年ノ境遇等ニ適応セシムルモノトス

この訓令から明らかなように、青年学校は「男女青年ニ対シ其ノ心身ヲ鍛錬シ徳性ヲ涵養スルト共ニ職業及実際生活ニ須要(しゅよう)ナル知識技能ヲ授(さず)ケ以テ国民タルノ資質ヲ向上セシムル」ことを目的とした。

写真156 青年学校学則制定について

(石戸村 555)

こうした目的を実現する青年学校の課程は、普通科・本科・研究科・専修科の四科をもって構成された。教授及び訓練期間は普通科二年、本科男子五年・女子三年で土地の情況によって各一か年を短縮することができるとした。研究科は一年以上、専修科は適宜(てきぎ)とした。つまり尋常小学校を卒業して青年学校に入学する者は普通科に、高等小学校卒業者は本科に入学させ、普通科卒業者と年齢をそろえるようにした。研究科は本科卒業者またはこれに相当する教養のある者を入学させ、専修科に特別の事項を修得する希望者を入居させることとした。
この青年学校令を施行するに当たって、埼玉県(学務部)は青年訓練所を廃止し、公民学校を青年学校令によって改良することとし、七月一日に一斉に認可する旨各市町村に通達した。埼玉県下の青年学校が多く昭和十年七月一日に認可され発足しているのはそのためである。中丸・石戸両村の青年学校もその日に認可され、各校の校史によると前者は七月十日、後者は十月に開校された(中丸については、校史に十月に開校の記録と二説あり)。
しかし、中丸・石戸両校の、その当時の靑年学校校則は残念ながら見当たらない。しかし、いずれも各尋常高等小学校に併設され、普通科・本科・研究科・専修科を置き、教授・訓練期間は普通科二年、本科四年、研究科を二年とした。専修科は期間を特定しなかった。教授・訓練科目は本科の場合、修身及び公民、普通学科(国語・数学・地理・国史・理科)、農業科、教練とし、女子には教練の代わりに体操を課し、別に家事及び裁縫科を課した。これらの科目の中で、男子は教練が、女子は家事及び裁縫が最も重視された。石戸・中丸両青年学校とも農業に従事する青年が主たる対象であったから、教授・訓練の時期は農閑期(十一月~翌年三月)に集中した。なお、普通科・研究科の課程を修了した者には修了証を、本科の課程を卒業した者には卒業証書が授与された。
青年学校の教員は、教練以外はこれまで公民学校の授業を担当した小学校教員が兼務した。青年学校長も小学校長が兼務した。教練については在郷軍人又は軍隊経験者を「指導員」に委嘱(しょく)し、その指導に当たらせた。
ところで、教練を本命とする青年学校は、昭和十四年度より義務制となつた。まず普通科第一学年から着手し、学年進行にしたがって義務制を進め、昭和二十年度をもって本科五年の義務制を完了し、ここに普通科からとおして七か年の義務教育を実施することとなった。これによって勤労青年に対する教育の機会が拡大されたわけであるが、義務制施行間もなく太平洋戦争へ突入し、昭和十八年以降戦況が急速に悪化し非常時体制が強化される中で、指導員らは次々に召集され、村立青年学校は存続が困難となり、隣村が組合をつくって一青年学校を営むということが多くなった。そうした折に石戸村と中丸村が合併し、北本宿村が発足した。北本宿村という新村の誕生によって石戸・中丸両青年学校は統合され、昭和十八年四月一日、北本宿青年学校が独立校として設置され、同月十七日開校式を行った。当時の職員と生徒を示せば、表69のとおりである。校舎は真福寺(大師様)前に建築し、庫裡(くり)とともに教場に使用し、教練は石戸国民学校校庭を利用した。


表69 青年学校教員名と生徒数
 職員
職 名担 当 学 年氏 名
校 長浅見都三郞
専 任本五研谷 沢 岩 蔵
本普一、二、三研加 藤 真 男
本三青 木 恒 治
本四大 塚 礴
研一、二新 井 美 代
矢 部 の ぶ
指 導 員本一新 井 令
本三大 島 康 巨
本四伊藤昇次郎
講 師伊 藤 亮 賢
堀 江 弘 之
田 島 俊
伊 藤 千 代
峯 尾 き <
高松久子
校医長崎次郎
近江光之助
 生徒
普 通 科本  科研 究 科
学 年121234512 
五七二七四四三五二八 二〇二
三一六〇六二  五四二一二

(学校便り創刊号より引用 加藤一男家 九四)

なお、本校は「皆様の御子さんは大事な家庭のお子さんであると同時に陛下のお子さん」であるとの認識に立って、〃国家ノ靑年トシテ「しっかりした」家庭ノ青年トシテ「真面目ナ」〃をスローガンとし、次のような青年の養成を意図した。
一皇国の魂を錬成してゐる靑年
一直に戦場で働ける青年
一親孝行な真面目な青年
一よく働きよく学ぶ勤労青年
一体格のがっちりした青年

(近代№二二六)


写真157 石戸小学校に併設された石戸青年学校

(谷沢利一家提供)

こうした青年の育成をめざした北本宿青年学校の授業の実際を昭和十九年一月に例をとってみると、男子は十三日間、女子は十四日間、授業時数は男子が七十三時間、女子は八十五時間を計画している。一月一日の修身及び公民一時間を除けば、他はすべて一日六時間(午前九時~午後四時、昼食携行(けいこう))で、教練と学科(普通)をその課目としている。月末には男女全校生徒を対象に一日の全授業時間を使って耐寒(たいかん)行軍の実施を予定している(加藤一男家 九十四)。よって青年学校は、教練を中心として「大日本帝国軍人」を養成するための練兵場であった、とその性格を要約することができよう。
なお、北本宿青年学校は、同二十一年まで真福寺前校舎において授業を実施し、翌二十二年に残務処理をしてその歴史を閉じた。終戦後、戦時中の関係書類は廃棄焼却されたようで、これ以上の詳細なことは容易に知ることができない。

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