北本市史 通史編 近代

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第4章 十五年戦争下の村とくらし

第3節 太平洋戦争と教育

4 戦争の激化と戦時非常措置

疎開児童の転入
昭和十六年十二月八日に始まった太平洋戦争(大東亜戦争と呼称)は、緒戦において華々しい戦果を上げたものの、開戦半年にして早くも形勢は逆転し始め、山本連合艦隊司令長官の死(十八年四月十八日)、アッツ島守備隊の玉砕(ぎょくさい)(同年五月二十九日)以降、戦局は刻一刻悪化の一途をたどった。そして同十九年六月半ばに至って米軍の本土空襲がにわかに激しくなり、警報が連日発令された。北本市域にも毎日警戒警報のサイレンが鳴り響いた(昭和十九年度石戸国民学校『学校日誌』)。
こうした戦況下において、学童疎開促進要綱が閣議決定(十九年六月三十日)された。この「要綱」は、一般の人々の疎開の促進を図るとともに、特に国民学校初等科児童(=学童)の疎開を強く促(うなが)すこととし、その方策として学童の疎開は、まず縁故疎開を強力に勧奨し、縁故先のない者は帝都学童疎開実施要領によって集団疎開を実施することとした。その「実施要領」によれば、集団疎開をする学童の範囲は、「区部ノ国民学校初等科三年以上六年迄(まで)ノ児童」であって、「親戚縁故先等ニ疎開シ難キモノ」をその対象とした。疎開先は「差当り関東地方(神奈川県ヲ除ク)及其ノ近県」とした。そこで東京に隣接する本県は、戦火をのがれて疎開する東京区民の格好の場所となり、本県内に集団疎開した学校は日本橋・京橋区(現中央区)及び神田区(現千代田区)の学校であってその数は三十校を超え、四十六の市町村が集団疎開学童を受け入れている(『県史通史編六』P一〇五一)。収容施設はそのほとんどが寺院であった。市域にも集団疎開学童が訪れた。時は十九年八月二十七日、疎開校は日本橋区久松国民学校で場所は寿命院と多聞寺であった。

写真158 学童疎開児童の絵 乾布まさつ

「寿命院学寮の一日」より引用(服部正子氏提供)

写真159 学童疎開児童の絵 奉安殿拝礼

「寿命院学寮の一日」より引用(服部正子氏提供)

『久松小学校八十年史』によれば、当時同校は一、二〇〇名の児童を擁(よう)するマンモス校であって、縁故疎開者六〇〇名、残留者三〇〇名を除く三〇〇名が集団疎開した。三〇〇名という多人数であったので、北足立郡下一町三か村、七か寺に分散疎開した(近代No.二二九~二三一)。同十九年八月十一日の『毎日新聞』には、疎開学童の受入決定数は寿命院が六十名、多聞寺が四十名となっている(『県史通史編六』P一〇五二)。しかし、平成三年七月二十六日に日本橋横山町の拓銀会議室で行われた「北本での疎開生活」に関する座談会によれば、寿命院と多聞寺に疎開した学童は、六年女子と四年男女子であって、寿命院には六年女子十六名、四年女子三十二名の計四十八名、教員男女各一名、寮母一名、多聞寺には六年女子十六名、四年男子二十四名の計四十名、教員男女各一名、寮母一名、他に各寺に地元の賄婦(まかないふ)がいたという。
ところで、この久松国民学校は日本橋の問屋街を校区とする学校だったので、戦時中でも飴や乾燥(かんそう)バナナなどがあり、衣類にもあまり不自由をしなかったという。当時の寿命院を学寮とする子どもたちの生活風景は、「寿命院学寮の一日」と題する子どもの絵画(五十五枚)に細かく描写されている。故に、その絵画作品は、今や子どもたちの学寮生活の実態を知る上に貴重な資料であるといわなければならない。
表71 二部教授時間割表
登校職員
朝 礼
午前 7:30
 〃 8:00
午前 7:50
 〃 8:10
朝 礼
第1時
 〃 8:00
 〃 8:10
 〃 8:10
 〃 8:50
〃2時
〃3時
 〃 9:00
 〃 9:50
 〃 9:40
 〃 10:30
〃4時
〃5時
 〃 10:40
 〃 11:30
 〃 11:20
午後 0:10
〃1時
〃2時
 午後 0:30
 〃 1:20
 〃 1:10
 〃 2:00
〃3時
〃4時
 〃 2:10
 〃 3:00
 〃 2:50
 〃 3:40
清 掃
集 合
 〃 3:40
 〃 4:30
 〃 4:00
 
備 考第1部桜 下第2部桜 上

(石戸国民学校『学校日誌』昭和20年より作成)


また、縁故疎開学童の転入によって、石戸・中丸両国民学校の児童数は昭和十九年の二学期から急増し、翌二十年になると一、〇〇〇名を超える大規模校となった。

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