北本市史 通史編 近代

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第4章 十五年戦争下の村とくらし

第4節 十五年戦争下の生活と文化

4 戦時体制の強化

警防団と防空対策
昭和十六年十二月八日、日本海軍はハワイの真珠湾の米軍を奇襲し、また陸軍はイギリス領マレー半島を攻撃し、日本はこの日、アメリカ・イギリスに宣戦を布告して太平洋戦争が開始された。翌十七年五月までに東南アジアを中心に西太平洋からビルマにいたる広大な地域を占領下においた。しかし、六月のミッドウェー海戦で日本海軍の機動部隊は大敗して、戦局の主導権をアメリカに譲り、その後は後退に後退を重ねた。昭和十九年十月、アメリカ軍によってフィリピンで連合艦隊が全滅した。十一月以降マリアナ基地からB29による本土空襲が開始された。
そこで民間においても、防空・防火対策強化の必要が生じて来た。このため昭和十四年一月に公布された警防団令により、四月には旧町村単位に組織されていた消防組の警防団への組織替えが行われた。市域では、昭和十八年二月、石戸村及び中丸村を合併して北本宿村を発足させるに当たって、石戸警防団及び中丸警防団が廃され、北本宿警防団が設置された。警防団は、旧消防組の任務であった水防・消防活動のほか空襲に備えた防空活動、すなわち防空警報の伝達・灯火管制・防毒・救護・配給・避難所の管理・交通整理等の役割が加わり、非常時においては警察の補助的機能も重視された。
この警防団では、次の警防団歌と警防行進曲をつくり、式典や行進の際団員に歌わせたり、また広く国民に普及させるためのレコードを作製した。その際は鴻巣簪察署長名で、石戸警防団長に頒布(はんぷ)依頼がなされた。
警防団歌 作者武藤茂勝

青雲に 日はさしのぼり
旗風は 緑にそよぎ
この朝 若きこころに
畏(かしこ)くも 令旨(れいし)いただく
あゝ警防団血潮はたぎる

大空の 伸びゆくかぎり
大地(おおつち)の ひろがる極み
日本(ひのもと)を 永久(とは)に護りて
ただ強く 使命を奉じ
鉄壁の 砦(とりで)きずかむ
 あゝ警防団心はおどる

水と水を 防ぎて我等
空襲を 阻(はば)みて我等
ただ強く 使命を奉じ
死を越えて 誓い果さむ
    あゝ警防団生命(いのち)はかろし

新東亜 明けゆくかなた
大御(おおみ) 陵威(いつ) 輝くいまぞ
三百萬 意気の団結
すめろぎの 御楯(みたて)とならむ
    あゝ警防団誉(ほまれ)はかをる

(昭和十五年二月一日『埼玉県警防新聞』より)


写真163 防空演習のビラ

(石戸村 38)

空襲を想定して、関東地域で防空大演習が初めて実施されたのは、昭和八年八月九・十・十一日の三日間であった。この準備として、八月一日に鴻巣署管内一三か町村の消防組頭、青年団長らが集められ、警防伝達、灯火管制などについての方針説明があり、石戸兵事主任や中丸組頭らが出席した。
当時、「防空服装」としては防空ずきんが奨励された。当初男も女も、鼻と首、肩を被(おお)った「頭巾」を着け、その上に鉄兜(かぶと)をかぶった。防毒面・手袋・巻脚絆(まききゃはん)・地下足袋、女性は「モンペ」にズック靴という服装であったが、やがて実際に空襲を経験するようになると、頭にかぶるのは鉄兜よりも「防空ずきん」が多くなった。軽く、持ち運びにも便利で、家庭でも容易につくることができたからである。
しかし、昭和二十年に入ると空襲にはナパーム性M69油脂焼夷弾が用いられ、無差別絨緞(じゅうたん)爆撃の前にはなすすべも無かった。

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