北本市史 通史編 近代

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第4章 十五年戦争下の村とくらし

第4節 十五年戦争下の生活と文化

5 戦時下の人々のくらし

郷里から満州の曠野(こうや)へ
満州開拓団の存在の影にかくれて、開拓団員の動員による員数不足を補充するものとして一三歳から一九歳までの青少年を対象とする「満蒙開拓青少年義勇軍」が満蒙の曠野(こうや)に送られた。石戸村からも四名の少年が送られた。
満州開拓団は、昭和七年の第一次弥栄開拓団から同十一年の第五次の開拓団までの試験移民を経て、昭和十二年から本格的な移民が始まり、同二十年に中止となるまでの間に、全国から農民ないし農村雑業層を中心に一〇万二二三九戸、二二万九六八名が移民として送出された。
いつの時代でもどこの国でも、そこに生まれ育った人が自分の国を出て他国で生きようとする事情の中には、その国が抱える深刻な問題が背景に存在する。満州開拓団を実施せざるをえない背景は、昭和五年の昭和恐慌(きょうこう)にさかのぼる。いうまでもなく昭和四年十月末、アメリカにおける株式恐慌に端を発した世界恐慌は、翌年春には日本を襲い大きな打撃を与えた。もっとも過酷な影響を受けたのは農村でであった。米・繭(まゆ)をはじめ農産物の価格はのきなみ急落した。同五年には「キャベツ五十個で敷島(たばこ)一つにしか当らず、蕪(かぶ)は百把(ぱ)なければバット(たばこ)一つ買えません。繭は三貫、大麦は三俵でタッた一〇円」(『県史通史編六』P四九五)といわれたほどであった。農業生産物価総額でみると、同四年を一〇〇とすると同六年には五六・七まで落ちこみ、同四年の水準に戻るのは同十一年からであった。この農業恐慌に追い打ちをかけるように、同六年には、東北・北海道を中心とする冷害による凶作、同八年には東北三陸で大地震、同九年には関西で風水害、西日本では旱魃(かんばつ)、東北で冷害と災害が相次いで襲った。
都市における大3の失業者は、その出身地である農村に帰らざるを得なかった。昭和六年から同八年に解雇された都市労働者の約四四パーセント、七十三万人余が農村にかえり、昭和恐慌で疲弊(ひへい)した農村経済を一層苦しいものにした。
一方、軍は昭和六年、柳条湖(りゅうじょうこ)事件をきっかけに満州事変を起こし、翌七年には中国東北三省(満州)全域を武力支配した。そして三月一日には、中国清朝最後の皇帝溥儀(ふぎ)をかつぎ出して「満州国」の建国を宣言した。これは関東軍が実質的に支配する日本の傀儡(かいらい)国家であった。建国宣言はしたものの、広大な国土にはわずかな日本人(満鉄関係者)しかおらず、治安もすこぶる悪かった。関東軍は満州国を対ソ戦線の兵站(へいたん)基地とし、ソ満国境に関東軍の主軸を配置していたが、敗色が濃くなるにつれ南進政策により、主要部隊は次第に南方戦線に配属されていった。
昭和恐慌による農村の過剰人口の対応と満州への移民がここで結びついた。
この満州移民には、以下の軍事的・政治的任務が課せられていた。第一に、「満州国」の治安確立・維持に協力すること。日本人移民総数の四割が、反満抗日武装部隊の最大の遊撃区、重要河川沿岸地域、満鉄沿線、とくに軍用鉄道沿線に投入された。第二は、対ソ防備・作戦上の軍事的補助者として関東軍に協力すること。日本人移民総数の五割は、ソ満国境附近に「人間卜ーチカ」として配備され、一朝有事の時には関東軍の後備兵力としての役割をになわされていた。第三は、昭和恐慌による「過剰人口」「土地飢餓(きが)」を解消するため。また、恐慌によって深刻化した地主と小作人の階級的対立・農民闘争の激化を防止すること。第四は満州重工業地帯の防衛に協力すること。これも移民団の配置位置がそれを証明している。第五は、建国のスローガンである「五族協和」はまやかしで、満州に「日本的秩序」を打ち立てることであった(『県史通史編六』P六六〇)。
埼玉県では昭和八年から同十一年までに二七名が、その後昭和十二年から同十八年末までに一一六戸、四四九名が移民として満州へ渡った。分村移民では、同十四年に秩父郡中川村(現荒川村)が、同十八年末までに一六四戸、六九九人を送り出した。

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