北本市史 通史編 近代

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第4章 十五年戦争下の村とくらし

第4節 十五年戦争下の生活と文化

5 戦時下の人々のくらし

満蒙開拓青少年義勇軍

写真169 青少年義勇軍訓練所所在地図

開拓並義勇軍書類綴より引用(長島元重家 53)

満蒙開拓青少年義勇軍は、昭和十三年一月に実施要綱が発表された。入所者は同十九年の第七次までで計一五六九名であった。市域から参加した四名のうちの一人椎林正義さんは、聞き取り調査で自らの「義勇軍」体験を次のように語ってくれた。
椎林さんは、小学校五年生の頃から満州に行きたいと思っていた。知人が行ったのが直接のきっかけであったが、 高等科一年の時、視察に満州まで行ってきた教員の話を聞いて拍車(はくしゃ)がかかった。昭和十七年二月十日、茨城県下中妻村の内原訓練所に入所した。当時訓練所には一万人くらいの隊員がおり、同期は二五〇名であった。そこでの生活は、朝は起床ラッパで起こされ、「やまとばたらき」と称する体操をしてから三〇分から一時間のマラソンをすることから始まった。内容は軍事訓練が中心であった。五月十二日に訓練を終えて内原訓練所を出発した。同期は兵庫と埼玉の河南中隊であった。東京駅で家族と別れ皇居に参拝したのち列車で出発した。途中伊勢神宮に参拝。翌十四日昼ごろ神戸を出て下関に到着。船で下関を出発して大連に上陸した。旅順から一路北上、ハルピンの東北、竜江省甘南県の北西部、興安東省との境界に近い所にあった満鉄豊栄(とよさか)義勇隊訓練所に入植した。この部隊には満州鉄道を守備するという任務があった。
訓練所での生活は困難をきわめた。入植して半年ぐらいは食料が無く、自給自足できるまでは大変なことであった。ブタ一〇頭、乳牛は六、七頭が支給され、作物はトウモロコシ・スイカ・マクワウリ・大豆・キャベツで、穀類は支給された。入植地の土壌(どじょう)はあまり肥沃(ひよく)ではなかった。娯楽は何もなく、たまに講堂でやる演芸会が唯一(ゆいいつ)の楽しみであった。野球部に入って満鉄職員と試合をするのも楽しかった。豊栄訓練所での三年の訓練ののち開拓団に入る予定となっていた。
昭和十九年に入ると戦争激化のニュースが伝わり、それを裏づけるかのように年長者の現地入営が始まり、一方隊員の他所転出、退所、帰宅といった事態が続き、中隊の人員が徐々に減少していった。九月頃、訓練所から九五名が関東軍に臨時軍属として珠河の野戦倉庫に配属された。
翌二十年四月、ハルピンで徴兵検査を受け、八月一日に四平街に入隊。夜間、奉天に移動した。そこで松林の中にタコ壺・テントを設営して携行爆雷(けいこうばくらい)を持ってタコ壺(つぼ)から戦車に突撃する訓練を行っていた。十八日に部隊長から終戦を知らされた。二十日には奉天で武装解除、ソ連軍の監督下におかれ捕虜(ほりょ)となった。以後九月十八日に黒龍江を渡り、シベリアのウズベック共和国からタシケント、さらにコカントまで連行され、強制労働に従事させられた。そこではアルカリを中和する工場の建設作業を行わせられた。作業が終了すれば日本に帰還できると思った。ソ連軍による思想教育はなかった。

写真170 満鉄豊栄(とよさか)訓練所

昭和18年(椎林正義家提供)

写真171 満鉄豊栄訓練所

昭和18年(椎林正義家提供)

そこからシベリアに移動させられ、ナホトカまで通じる軍用道路建設作業に従事させられた。幅八メートル、側溝一メートル、計幅一〇メートルの道路工事で三か月の間にたくさんの人が死亡した。青いジャガイモを食べた。缶詰のカンは煮炊きするのに便利で貴重なものであった。九月には下山した。昭和二十三年五月九日、ナホトカを出発。十二日に舞鶴(まいづる)に到着。夕方舞鶴を出発。十三日、北本の自宅に帰った。(平成三年八月一日、市史編さん室で聞き取り)
「満蒙開拓青少年義勇軍」は「満州開拓団」が戦況の悪化による動員の激化によって人員不足となり、それを若年の青少年によって補完するものとして企図(きと)された。ここに国家総動員体制の典型的な姿を見ることができる。満州開拓団の、そして青少年義勇軍の、ソ連参戦以後の運命は過酷(かこく)なものであった。

写真172 満蒙開拓青少年義勇団とは何か

開拓並義勇軍書類綴より引用(長島元重家 53)

写真173 青少年義勇軍訓練所訓練課程図解

開拓並義勇軍書類綴より引用(長島元重家 53)

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