北本市史 通史編 近代

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第4章 十五年戦争下の村とくらし

第1節 十五年戦争下の村政

3 大政翼賛運動と村政

戦争協力体制の確立

写真140 年間主要行事予定表

昭和14年度(加藤一男家 44-1)

昭和十五年十月十二日、第二次近衛内閣は戦争の長期化によって国民生活が困難となり国民の不安・不満が増大すると、戦争遂行のため国民をより一層戦争に協力させることを企図して、基本国策要綱を発表して大政翼賛(たいせいよくさん)運動を推進した。この運動に呼応して各政党の解散も行われた。この運動の性格は万民翼賛(ばんみんよくさん)・一億一心・職分奉公の国民組織で、臣道実践(しんどうじっせん)体制の実現を期することを目的とする全国民の運動であることが明確化された。中央には内閣総理大臣近衛文麿(このえふみまろ)を総裁とする中央本部が設けられ、各府県及び市町村には府県知事・市町村長を支部長とする支部が設けられた。県でも同年十二月国民精神総動員運動埼玉県本部を解散し、同月十二日に大政翼賛会埼玉本部を発足させて(『県史資料編二十』No.九十五)、それぞれの職能団体、例えば産業報国会・農会・在郷(ざいごう)軍人会・青年団・教育会・愛国婦人会、国防婦人会等を統制して運動に参加させた。とくに、この運動の中核として活動が期待されたのが「上意下達(じょういかたつ)、下情上通(かじょうじょうつう)」の組織としての市町村常会・町内常会・部落会と、その下部組織である隣保班・隣組であった。この市町村常会・町内常会・部落常会はすでに国民精神総動員運動の実践綱目として組織されており、銃後後援・生産力増強・貯蓄奨励等の重要国策周知、協力実践のため利用されていた。政府はこれを一層推進するため、江戸時代の相互監視組織である五人組に相当する隣組による組織を編成強化しようとして、同十五年九月、町内会・部落会整備要綱を発し、当時もり上ってきた国民による新体制運動を直接内務省が吸収し、県・市町村を通じて国家体制の中に組み入れようとはかった。
石戸村では、同年十一月石戸村常会規約、石戸村部落会規約が決められた。常会規約では、目的として「隣保団結ノ精神二基キ区域内ノ住民ヲ組織結合シ万民翼賛ノ本旨(ほんし)ニ則(のっと)リ地方共同ノ任務ヲ遂行(すいこう)スルコト」、「区域住民ノ道徳的錬成卜精神的団結ヲ図ルノ基礎組織トスルコト」、「国策ヲ汎(あまね)ク区域内住民二透徹(とうてつ)セシメ国政万般円滑ナル運用ニ資スルコト」、「国民経済生活ノ地域的統制単位トシテ統制経済ノ運用卜国民生活ノ安定上必要ナル機能を発揮スルコト」が挙げられた。

写真141 麦刈り共同作業

昭和15年ころ 中丸(新島清作家提供)

また第四条には「本会ノ構成員八左記ノ者ノ中ヨリ村長之(これ)ヲ選任シ石戸村常会委員卜呼称(こしょう)ス」とあり、次のような職名や組織名が挙げられている。石戸村助役、部落会会長、石戸村農会長、石戸信用組合長、石戸村養蚕実行組合連合会長、村会議員、小学校職員、石戸警防団長、石戸村軍人分会長、石戸村教育会長、愛国婦人会石戸村分会長、国防婦人会石戸村分会長、石戸村男女青年団長、常務方面委員会、その他適任と認むる者とあり、この運動を担った主体的組織が窺える。
明治二十一年(一八八八)の市制・町村制公布以来、行政の末端単位である市町村の下には、法制的組織を認めなかった政府ではあるが、満州事変以後の町村の事務の増加から、町内会や部落会はその役割を分担する行政補助組織として、新しい意味を持つようになってきていた。国家総力戦を遂行するためには、直接国民個々人に達するルートとして隣保(りんぽ)組織が大きな力となった。「上意下達(じょういかたつ)、下情上通(かじょうじょうつう)」のスローガンは、この組織がまさに下の意見を聴くためではなく、上の意見(統制)が下に達するための機構であったことを物語っている。
部落会規約では、任務として、「一、経済・産業・教化ニ関スル事項、二、警防・保健・衛生ニ関スル事項、三、社会施設ニ関スル事項、四、時局下ニオケル必要物資ノ増産供出配給及消費規正ニ関スル事項、五、其ノ他共同生活ニ関連(かんれん)スル各般ノ事項」があげられ、近代的な意味における「個人」が尊重される場面は全く排除(はいじょ)された。
満州事変以後、精動(せいどう)・翼賛(よくさん)の両運動の中で、大きな役割を果たしてきた組織の一つに在郷軍人会がある。同会は出征将兵の慰問や家族の慰問、戦病死軍人の弔祭や傷病将兵の慰藉(いしゃ)のみでなく、時局講演会や教化活動にも積極的役割を果たした。
昭和十六年十二月八日、東条英機(とうじょうひでき)内閣によって太平洋戦争に突入すると、挙国軍事体制はいよいよ強化され、町内会・部落会や隣組の組織は完全に戦時行政の下部組織に組み込まれた。町内会・部落会の任務は隣組を統轄(とうかつ)し、供出や配給をはじめ警防等について上部機関からの通達を伝達し、隣組はこれを受けて供出・配給・公債の割当・国防献金・出征兵士の送迎・防空演習・金属や廃品の回収(十六年八月政府は金属特別回収をはじめる)・回覧板の伝達などにあたった。

写真142 畑仕事の勤労奉仕

昭和17年 荒井(岡野武弘家提供)

同十六年の九月、中央において「翼賛壮年団結成基本要綱」が作成された。これは大政翼賛運動の原動力として翼賛壮年団を位置づけ、それに政治的精神運動を積極的に担(にな)わせようとするものであった。県では同十七年二月十日、埼玉県翼賛壮年団を成立させた(『県史資料編二十』No.一〇五)。この団体はのちに産業報国会や大日本婦人会などをはじめとして、部落会や隣保班などもその指導下におくほどの力を発揮した。二月以降は、県下各市町村においても翼賛壮年団(あるいは翼賛青壮年団)が次々と結成された。同年四月には「北足立郡中丸村翼賛壮年団」が結成され(近代No.七十九)、国民精神の昂揚(こうよう)・時局認識の徹底・興亜(こうあ)運動の推進・国策遂行(こくさくすいこう)への挺身(ていしん)・地域的職域的翼賛体制の促進強化・戦時生活体制の建設・国防思想の普及、銃後奉公活動の強化などを行うものとされた。この壮年団の活動は泣く子も黙(だま)るといわれるほど人々から恐れられたといわれ、同年四月のいわゆる「翼賛選挙」には、翼賛壮年団は率先(そっせん)してその活動を推進させた。
一方、昭和十六年二月には「北足立郡石戸村生活改善申合規約」が決められた(近代No.二九六)。これは日常の冠婚葬祭(かんこうそうさい)などについて「滅私奉公(めっしほうこう)」という立場に立って厳しく規制したものであり、国民生活の統制も一つの頂点に達した。


写真143 警防団

(小林恒一家提供)

消防組は、明治二十七年(一八九四)二月以降水防に中心的役割を果たしてきたが、昭和十四年四月には戦時体制の一環としてその組織は防護団と合流して名称も警防団と改められ、戦時下国家総力戦における防空の業務を負わされた。警防団の指揮系統は警察の補助機関として警察署長の管掌下(かんしょうか)におかれたが、その組織は国家機関の中に組み入れられた。同十五年には警防団歌と警防行進曲がレコード化され、市域においても実費頒布(はんぷ)され、警防思想の普及がはかられた(第四章第四節参照)。
昭和十六年七月、日本軍は中国戦線の膠着(こうちゃく)化を脱するため南北併進の方針を決定し、南部フランス領インドシナ進駐を行った。これに対しアメリカはイギリス・オランダとともに日本資産を凍結し、八月には日本への石油輸出を禁止した。民需用品は日を追って品不足が目立ち「ガソリン一滴(いってき)血の一滴」といわれるようになった。主食の本格的配給は同十六年四月から行われ、一般の大人は二合三勺(しゃく)(三三〇グラム)を米穀通帳により指定された米穀店から配給された。翌十七年から戦局が不利になるにしたがって、外米の他に麦・甘藷(かんしょ)・馬鈴薯(ばれいしょ)・とうもろこし・うりゃん等が代替配給されるようになった。同十九年には飼料用の大豆粕・どんぐり粉までが代用品として配給されたが、同二十年になると一日二合三勺の基準さえ削減されるようになつた。

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