北本市史 通史編 現代

全般 >> 北本市史 >> 通史編 >> 現代

第1章 戦後復興期の北本

第3節 食糧増産時代の北本

2 戦後の食管制度と北本の農業

統制経済と供出制度
戦後の食糧事情の悪化に対して、政府は帰農(きのう)政策(入植開こん)や増産政策(耕地拡大と土地改良)の推進と同時に、徹底した食糧管理制度を実施した。食糧の管理は米麦からいも・雑穀(ざっこく)類にまで及び、過酷(かこく)な割当供出制と生産者価格の抑制を主眼(しゅがん)としていた。農民たちは生産計画に基づく厳しい食糧管理制度に対して、昭和二十三年、旧中丸村常光別所集落の対応が示すように、時には自らの飯米を削っても集落挙げての努力を惜しまなかった(現代No.六十)。
この時、常光別所集落は二年続きの不作の中で三十九戸の農家が麦を食べて米を出すこと、保有米まで食い込むことが予測されるので集落一体化して分け合って食べること、の二点の取り決めをした。完納に向けて皆が懸命に頑張った。かれらは前年の二十二年にもキャスリン台風による湛水(たんすい)被害で収穫が減少した分を、ヤミ米を買って完納するという美談(びだん)をもつ農民たちであった。
昭和二十年代もなかばすぎになると、アメリカからの小麦輸入の増加と国内での増産効果とが相まって、我が国はようやく極限状態の食糧難からぬけ出ることができた。この間、麦は間接統制となり、米だけが統制の対象として残る。米の供出割当も次第に緩和(かんわ)され、超過供出(きょうしゅつ)奨励金や早期供出奨励金が支給されるようになる。たとえば、昭和二十六年の北本では、農業委員会を中心に供出制度に対応すべく、まず次年度の春夏作と秋冬作の作付計画が策定された。さらに当該年度の産米作状況調査を一日かけて行い、実態を把握したうえで、水稲は農民の申告面積に従って割当て、陸稲(おかぼ)は申告面積を県指定面積の中間値をもって割当数量を決めた。
また、昭和二十七年度の場合、北本に割当てられた早期供出量は四十石八斗で、これに対する報償金は一石当たり九月末日供出が一〇〇〇円、十月十五日が七〇〇円、十月三十一日が五〇〇円であった。この金額は当時の政府買入価格が一石当たり七五〇〇円であったことから、まずまずの報償額といえる。しかも割当量に関係なく全量買上げの仕組みになっていたので、農民の間にそれなりの人気を得ていた(現代No.六十二)。
食糧事情の緩和(かんわ)につれ、供出割当量を決定する際の上からの強権的姿勢は後退し、昭和二十九年頃には市町村農業委員会の決定に基づいて行われるようになる。供出量そのものも昭和二十七年の義務供出量九九四石、超過供量環七十四石から二十九年には八一〇石とニ一二石へとそれぞれ義務供出量の減少、任意供出量の増加がみられ、農家にとっては一段と有利になっていった。なお、飯米用(はんようまい)・種子用保有米については、平均食率を六十五パーセントとみて、五歳から十五歳を一日三合五勺、十六歳以上を四合六勺とし、種子用については陸稲が反当り四升四合、水稲が四升五合とされた。水稲については、摘(つ)み田を基準にしたので若干高い数字となっている。

<< 前のページに戻る