北本市史 通史編 現代

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第1章 戦後復興期の北本

第3節 食糧増産時代の北本

3 乏水台地(ぼうすいだいち)と農業用水計画

幻と消えた農業用水計画
昭和二十四年のドッジ緊縮財政で土地改良事業が抑制されたこと、並びに見沼(みぬま)代用水の改良事業が県から国への所轄(しょかつ)移管と分水をめぐってもたっく間、これと連動して荒川左岸用水改良事業も、速成会の度重なる請願にもかかわらず、格別の進展をみないままに数年を経過する。昭和二十六年に入ってからようやく分水見通しもつき、国営移管の話も順調に進んで、同年十月九日には見沼代用水路枝派線(しはせん)荒川左岸用水路予備審査公示をみるに至る(現代No.六十八)。
実現に向けてのこうした一連の動きに対して、一部市町村から反対運動がおこった。反対運動は十月六日の予備審査公示によって一気に高まっていった。これに対して荒川左岸用水改良事業速成会は、県と連けいをとりながら、十二月十九日に事業内容と事業効果に疑念をもつ反対派市町村に対して、説明会を開き説得に努めた。この時点での推進派市町村は大宮・馬宮(まみや)・指扇(さしおうぎ)・植水(うえみず)(以上現大宮市)、与野、平方(ひらかた)(現上尾市)、伊奈、加納(現桶川市)の八市町村であった。
一方、足立用水路新設反対期成同盟会を組織して反対する市町村は、当初、鴻巣・箕田(以上現鴻巣市)、北本宿(現北本市)、川田谷(現桶川市)、大谷(現上尾市)、広田・屈巣(くす)(現川里村)の七町村であったが、その後、相次いで桶川・加納(以上現桶川市)、上尾・大石(以上現上尾市)、土合(つちあい)(現浦和市)、美笹(みささ)(現戸田市)が加わり、結局、大方の市町村が反対派にまわつてしまった。
昭和二十六年十一月十五日、こうした局面の転換を重視して、県当局は松山副知事を派遣し、予備審査公告に対する受益(じゅえき)者や幹線水路通過地元からの反対陳情に対処し、さらに十二月十九日には県農地部長による関係町村長への事業計画とくに畑地灌漑(かんがい)について、疑義(ぎぎ)の釈明(しゃくめい)を行うなど解決への努力を重ねた。しかし、所詮(しょせん)反対運動の大きなうねりを止めることはできなかった。
ここで、反対運動の流れと理由をまとめると以下のとおりである。大宮台地の畑地灌漑と谷津田の用水補給を目的とした国営農業用排水事業計画に対して、台地北部の用水路上手農村鴻巣、箕田、北本宿等が、幹線用水路による農地の大量潰廃(かいはい)を懸念して、まず反対運動の火の手を挙げた。反対の火の手は、小規模な水利組織ながら一応用水不足対策が整っていること、畑地灌漑の技術的・経営的効果に不安を抱いていることなどの理由から、用水路下手の農村まで巻き込んで広まっていった。こうして大宮台地の用排水事業計画は、昭和二十八年頃まで結論がでないままくすぶり続け、やがて来る都市化時代の波に飲み込まれていくことになる。

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