北本市史 通史編 現代
第1章 戦後復興期の北本
第3節 食糧増産時代の北本
5 土地改良事業の展開と陸田の成立
陸田の成立と分布戦後間もなく、中川水系中・上流部の自然堤防帯に成立した陸田---畑地水稲栽培---は、沖積微高地や浅く埋積された洪積台地から大宮・岩槻(いわつき)台地へと急速に普及していった。当初、陸田は砂質微高地での陸稲の干魃(かんばつ)対策として採用されたものであるが、後に米価の高値安定によって畑地における最も有利な土地利用法のひとつとなった。
陸田の分布域は昭和四十五年には大宮台地の北半分に広がり、なかでも北本・鴻巣地区の普及は目覚ましく、畑地総面積の三十七パーセントまで達した。北本での陸田の成立は、昭和三十年頃までに、旧中丸地区の天水田に隣接する重粘土壌地帯や荒川沿岸の上沼・下沼の一部に散見されるようになる。いずれも地下水位が高く、したがって用水が得易く、反面、過湿(かしつ)と湛水(たんすい)被害のため通常では畑として利用価値の劣るところであった。
和六十年現在、北本の陸田は米生産調整策の展開にもかかわらず広域的に残存し、とりわけ、十七号国道以東の山中、北中丸、朝日、古市場、宮内、深井にまとまって分布している。また、下石戸下から高尾にかけての江川上流支谷とその周辺台地上にも、ややまとまった分布がみられる。両地域とも洪積台地上の陸田であるが、十七号国道以東では地下水位が比較的浅く、いわゆる浅井戸ポンプ(三十メートル以浅用)で揚水可能な陸田が多いが、江川上流支谷周辺台地上の下石戸上の原・下石戸下の台原(だいはら)と市域北西部の荒井には、三十メートル以深用の深井戸ポンプが多く利用されている。このほか荒川沿岸の上沼(かみぬま)・下沼(しもぬま)地区にも圃場(ほじょう)整備の行き届いた大規模な陸田が成立し、自然発生的な洪積台地上の陸田と比べると外見上は水田地帯そのものの景観を呈している。結局、北本で陸田の分布がほとんどみられないのは、市街地並びに北本の屋根ともいえる県道川田谷---鴻巣線付近とその西域の浸食谷間の台地だけである。
図3 農業用の揚水機と陸田分布
(『市史自然原始』P132・133より作成)
写真9 陸田と揚水機場 平成3年 高尾
畑作地帯の北本には自給用の陸田が目立つ
中丸地区 | 石戸地区 | |
---|---|---|
1949年以前 | 1-1 | 5- |
1950~1955 | 15- | 18- |
1956~1960 | 38- | 17-1 |
1961~1965 | 118- 5 | 40- 4 |
1966~1970 | 114- 6 | 38- 6 |
1971~1975 | 53-11 | 29-16 |
1976~1980 | 24- 8 | 9-20 |
1981~1985 | 17- 6 | 4- 5 |
合 計 | 379-37 | 160-52 |
(『市史自然原始』P148より作成)
なお、昭和五十九年のデータから地域別の農業用井戸数と受益面積を顕著(けんちょ)な地区に限り列記すると以下のとおりである。旧石戸地区では台原(四十七本・十三へクタール)、原(三十本・十一ヘクタール)の二集落にすぎないが、旧中丸地区では北中丸東(七十三本・二十三ヘクタール)、北中丸北(五十五本・二十ヘクタール)、北中丸西(三十三本・十ヘクタール)、宮内上(七十一本・二十ヘクタール)、宮内下(三十一本・十一ヘクタール)、常光別所(四十三本・十四ヘクタール)の六集落と増え、合計でも旧石戸地区の二五五本・七十四ヘクタールに対し、旧中丸地区は四六七本・一四五ヘクタールに達している。ただし、この統計には上沼・下沼両土地改良区の陸田は含まれていない。それにしても昭和三十年代以降の陸田の発達、水田加用水の増加に伴う用水需要の大量発生を考えたとき、昭和二十年代なかばに幻と消えた荒川左岸農業用水事業のことが、改めて記憶の中に甦(よみがえ)ってくる。
表12 主要陸田地域の農業用井戸本数と受益面積 (単位:アール)
地 区 | 井戸本数 | 受益面積 |
---|---|---|
北 中 丸 | 182 | 5,925 |
常光別所 | 43 | 1,390 |
宮 内 | 109 | 3,121 |
深 井 | 74 | 1,922 |
そ の 他 | 59 | 2,187 |
中丸(小計) | 467 | 14,545 |
台 原 | 47 | 1,289 |
原 | 30 | 1,144 |
石 戸 宿 | 26 | 634 |
丸 山 | 13 | 521 |
谷 足(やだり) | 33 | 685 |
そ の 他 | 106 | 3,117 |
石戸(小計) | 255 | 7,390 |
合 計 | 722 | 21,935 |
(『市史自然原始』P137より作成)