北本市史 通史編 現代

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第1章 戦後復興期の北本

第3節 食糧増産時代の北本

6 市町村合併と農業団体の統廃合

両農協の経営基盤と合併の基本方針
第二次大戦後の農村民主化政策の一環として農業協同組合が成立する。当時の農業協同組合(以下農協と略称)は民主的な形式にもかかわらず、実態は旧農業会を継承(けいしょう)した極めて権力的な性格が色濃く残存し、また経済的な基盤も整っていなかった。このため、昭和二十五年のドッジ恐慌期(きょうこうき)に経営的危機に見舞われることになる。この対応策としてとられた経営再建策を、さらに一歩進めて、時代の要請にこたえようとしたのが農業基本法農政下の農協合併策であった。
国の農業政策に基づいて、埼玉県は農協合併の促進方を各市町村に通達するとともに、担当職員を派遣してその実現に努めた。北本町でもこれを受け、郡下の市町村に先駆けて石戸・中丸両農協の合併問題に着手する。
昭和三十六年六月十五日作成の「北本地区農業協同組合合併構想(案)」によると、農協合併の基本方針は「中丸・石戸農協を合併し、組織を拡充整備することによって農業状勢の変化に対応し、組合員の農業経営の近代化に十分役立てるような経営体制を確立する」ことに主眼を置いている。具体的には次のとおりである。(一)組合員へのサービス向上のために機構、管理方式、事業の在り方を考える。(二)北本町の農林業施策と密接な連けいを保ちながら組合員の営農改善に役立つような以下の施策を講ずる。(イ)営農指導員を設置する。(ロ)地域に適応した畜産・園芸等の振興を図る。(ハ)営農近代化資金等の充分な供給を図る。(ニ)文化厚生事業をさかんにし、組合員の連絡を強化するために有線放送施設の整備を考慮する。なお、事務分掌は「本所を三課制(総務・経済・信用)とし、支所には二係(信用・経済)を置くものとする」というものであった。また、合併の主要条件は両組合間の財産の不均衡、欠損金の有無、出資金の多少等については余りこだわらないようにする。出資金は一ロ一〇〇〇円とする、の二点であった(現代No.七十九)。
結局、石戸・中丸両農協の合併問題の背景には、高度経済成長のもとで曲り角に立たされた農業の将来をどうするかという課題、具体的には基本法農政の唱(とな)える選択的拡大再生産の一環として、果樹・畜産の振興が図られることになったものである。一方、土地売却代金の収納策にみるとおり、高度経済成長に伴う都市化の展開を踏まえて、早くも都市農協の一般的傾向とされる、金融機関化への第一歩を踏み出そうとする姿勢もかいまみられた。
合併協議会の設立に先立って作成された資料(昭和三六・三・三十一現在)によると、中丸農協の正組合員数五〇〇戸のうち農家は四八〇戸、石戸農協の正組合員数六九五戸のうち農家は六八〇戸であった。組合員農家数、専業農家率(石戸地区二十七パーセント、中丸地区十三パーセント)からみても、石戸農協が中丸農協を上回る支持基盤を有していたといえる。両地区とも畑作プラス水田水稲作型農村という点では共通するが、平均耕作面積では中丸地区(一.一ヘクタール)が石戸地区(〇.七ヘクタール)を若干上回ること、水田率も中丸地区(二十パーセント)が石戸地区(十パーセント)を超える点で異なっていた。
両地区内の専門農協・任意組合対農協との関係をみると、石戸養蚕農協(一五〇〇万円)の方が中丸養蚕農協(八〇〇万円)より地元農協への貯金振込高で優れており、また野菜部門では中丸地区が、畜産部門では石戸地区が、それぞれ貯金振込高で上位にあったようである。ただし、石戸地区で今日みられるような果樹部門については、昭和三十七年度から新植段階に入ったばかりのため、地元農協との預貯金関係は未成立であった。下部組織面では石戸農協のみに婦人部(七〇〇名)が設けられ、このことと専業農家率の差が、購買斡旋(あっせん)と貯金吸収面で、両農協の経営実績の差に反映していたことが予想される。
なお、財務内容調査書によると、要整理資産、繰越欠損金、特別整理金、未整理金の合計が、中丸農協で四三七万円、石戸農協では二五〇円となっていた。食管会計で優遇(ゆうぐう)されてきた米価制度のもとで、水田率と平均耕地規模の大きい中丸農協が、経営面で石戸農協におくれをとるに至った確たる理由は不明である。

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