北本市史 通史編 現代

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第1章 戦後復興期の北本

第3節 食糧増産時代の北本

6 市町村合併と農業団体の統廃合

農業共済組合の統廃合
昭和二十二年の発足以来、北本宿村には石戸・中丸両共済組合が併置されていた。その結果、昭和三十二年の制度改正を機に、一村ニ組合併立の不合理を改め、組合経営の基盤を強化するための合併問題が急速に浮上することになる。共済組合合併は、後の農業協同組合の合併問題と異なり、極めてスム—ズに進展した。すなわち、昭和三十一年八月十七日の浦和農林事務所の合併趣旨(しゅし)説明から、昭和三十二年一月十四日開催の両組合代表者会議の仮決定を経て、同年三月二十八日には設立総会で可決の運びとなり、同三十二年六月一日、ここに北本宿村農業共済組合の成立をみるに至った(現代No.七十七)。
当時の農業共済の目的と資格を定款(ていかん)に基づいて概観(がいかん)すると次のとおりである。まず、共済目的のうち作物共済としては米、麦、蚕繭(さんけん)(桑葉を含む)を対象とし、認定災害は風水害、干害、冷害、雪害、凍害(とうがい)、雹害(ひょうがい)、その他地震・噴火を含む気象災害ならびに病虫害、鳥獣害のすべてにわたっていた。また、家畜共済としては前述のように、大・中家畜の廃用、疾病、傷害を対象とするものであったが、今日、普及している養鶏(ようけい)については、当時はまだ自給的性格が強かったので除外されていた。このほかに、任意共済として建物と農機具が対象とされていた。
なお、共済組合員資格は、(一)五畝(せ)以上の土地を耕しかつ米・麦作を営む者、および年間十グラム以上の養蚕卵を掃(は)き立てる者、(二)牛、馬、山羊、緬羊(めんよう)又は種豚を所有ないし管理する者、(三)建物を所有して農業を営む者、のいずれかに該当することが必要条件であった(現代No.七十八)。
昭和三〇年代後半からの高度成長経済の進展は、近郊農村北本の農業にも大きな影響を及ぼし、共済対象作物である米、麦の作付、養蚕飼育規模の大幅な減少をひきおこした。加えて高崎線沿線に立地する北本では都市化に伴う農地の転用と移動、農業労働力の流出による組合員農家の減少が進行した。その結果、賦課(ふか)金収入額の著しい減少を生ずることになった(現代No.八十一)。
一方、高度経済成長下の農業の変貌(へんぼう)は、水稲生産の安定化と相まって、作物共済の在り方に新たな問題を投げかけることになる。こうした状況に対応すべく昭和三十八年に共済システムの改正---通常災害における共済責任の国から市町村農業共済組合への移行、強制加入制度の緩和(かんわ)(三十アール未満農家の自由参加)、損害補塡率(そんがいほてんりつ)の充実---が行われた。
結局、賦課金収入額の著しい減少のもとでの共済責任の受託(じゅたく)、という厳しい事態に立たされた北本町農業共済組合としては、町当局への助成要求とともに、隣接市町村共済との合併による経営基盤の強化、という方向を模索(もさく)せざるを得なくなった。北本・桶川・上尾・伊奈四市町村を統合した広域農業共済組合の成立機運は、こうした現実を踏まえながら醸成(じょうせい)されていった。ただし、広域合併が実現するまでの道程(みちのり)は長く、昭和三十八年のシステム改正から数年経た昭和四十四年十二月に、ようやく合併構想案の策定にこぎつけ、翌四十五年四月一日に北足立北部農業共済組合の合併新設をみた(現代No.八十三)。

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