北本市史 通史編 現代

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第1章 戦後復興期の北本

第3節 食糧増産時代の北本

7 北本の農業の特色 ―台地と谷津田ー

ヤド口地帯と麦作
『荒川 人文皿』(荒川総合調査報告書 4)p一八五によると、ドロツケとは民俗語彙(い)で、大宮台地西縁部の農民たちが荒川の氾濫堆積土(はんらんたいせきど)を台地上の畑に運んだ作業を指していう言葉であり、客土材料となった氾濫堆積土をヤド口と呼んだ。
ド口ツケによって形成されたヤドロ地帯は、鴻巣から大宮までの台地西べりの幅約四キロメートルにわたっているが、北本では高尾・石戸宿・下石戸下にかけて分布し、ほぼ江川の谷筋をもって分布境界ができているといえる。ドロツケを必要とした理由は、台地の西縁では北西風と植生(コナラ・アカマツ)の影響で腐植土層が薄く、生産力--とくに燐酸分(りんさんぶん)不足--が低かった。そのうえ霜柱による麦の被害がしばしば発生した。そこで燐酸分を補い霜柱による被害を防止するためにヤド口が利用されたわけである。
ドロッケは明治・大正期までは馬で、昭和に入ると馬車・牛車・オート三輪で運ぶようになったという。戦後富山平野で行われた水田への流水客土法に比べると、大宮台地西縁のドロツケがいかに苦しく長い歴史だったかが偲(しの)ばれる。客土量は北本の高尾で平均四十~五十センチメートル、石戸宿のように河川敷に近いところでは一メートルに達するものもあるという。
ドロッケによって台地西縁の畑の地力は著しく高まり、昭和初期のデータによると大石・川田谷・石戸の各村の反収(たんしゅう)は県内随一であった。その結果、麦作日本一といわれた埼玉県のそのまた中核を形づくったのが、いわゆる「足立の大麦」、「中山道麦」の名で呼ばれた台地西縁のヤド口地帯であった。
ドロッケは一般に大正の終わり頃には行われなくなるが、一部の精農家(せいのうか)では昭和三十年ごろまで継続したという。なお、ヤド口地帯の土壌生産力はいまでも決して衰えてはいない、と前掲報告書は結んでいる。

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