北本市史 通史編 現代

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第1章 戦後復興期の北本

第3節 食糧増産時代の北本

7 北本の農業の特色 ―台地と谷津田ー

台地畑作と農事試験場畑作分場
昭和三十四年、当時の北本宿村に農林省農事試験場の畑作分場が設置された。そもそも日本の畑作地帯は北海道東部、関東、南九州の三地方で、ここでは水田より畑地の比率が上回っていた。これらの地方に畑地が卓越(たくえつ)していたのは、南九州ではシラス台地、関東では関東ローム台地、北海道東部では根釧(こんせん)原野など、どちらかというと水利条件の悪い広大な火山灰台地が分布していたためである。

写真10 農林省農事試験場畑作分場 昭和42年 荒井

このうち、関東口—ム層の分布する大宮台地は、両総(りょうそう)台地と武蔵野台地・入間丘陵(いるまきゅうりょう)の中間に在って土壌(どじょう)的に両者の中間的性質をもっていたこと、鴻巣農事試験場本場が近くに設置され連けい上便利であったこと、北本宿村自体が普通畑作農業が盛んで、麦作や甘藷栽培では古くからつとにその名が知られていたことなどの理由が相まって、農事試験場畑作分場の設置をみたものと考える。
ところで昭和三十三年に設置された農事試験場(畑作部門)としては、北海道畑作に関しては道東の帯広(おびひろ)郊外、南九州畑作に関しては宮崎県都城(みやこのじょう)市、そして関東畑作に関しては北本宿がそれぞれ選ばれた。北本宿村(石戸)の農事試験場のねらいはそれまでの水田米麦作研究偏重(へんちょう)に対して、畑作主要作物の選定と収量向上、間作作物栽培期間の検討、深耕(しんこう)や施肥(せひ)方法などに試験の重点がおかれていた。
北本に試験場が設置され、ようやく研究環境が整い、参観者も日をおって増加していた矢先の昭和三十九年、首都圏整備に伴う官庁の移転計画の一環として、北本の畑作分場も鴻巣本場とともに筑波(つくば)研究学園都市への移転計画が発表された。
短期間ではあったが、近隣の畑作農業と農家に大きな影響を与え期待される存在であったこと、ここに勤める多くの人たちの生活がかかつていたことなどから、北本町、鴻巣市とも町ぐるみ、市ぐるみで反対運動を起こした。北本町の場合、試験場に勤務する人九十一世帯、鴻巣からの通勤者ニ十二世帯であった。
結局、試験場の移転問題は学園都市の建設を待って実行に移され、関東の畑作農家に存在を知られた「農林省農事試験場畑作部・農林省農業技術研究所生理遺伝部生理第二課」は、筑波研究学園都市に移転吸収されてしまった。

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