北本市史 通史編 現代

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第1章 戦後復興期の北本

第5節 在方町から衛星都市へ

1 揺籃期の北本の商業

蕨(わらび)から本庄(ほんじょう)にかけての中山道の町々は江戸時代の宿駅として成立して以来、その多くが在方町の機能を併せ持っていた。その後、明治中期の高崎線開通に際し、宿駅に集積した第二・三次産業とその従事人口が、鉄道培養人口として国鉄駅の設置を実現する原動力となっていく。その結果、駅東口(中山道側)に設けられた改札口を起点とする駅前通りが整備され、これらの町々にはT字状の街区が形成されていった。
一方、北本の場合は、桶川宿と鴻巣宿の間宿(あいのしゅく)だったことから宿駅としての性格が弱く、在方町としての商業機能も稀薄(きはく)であった。加えて北本宿駅の開設が昭和三年と他より大幅におくれたこともあって、一般の宿駅起源の町々のような街区の形成とそれに関連する商業の発達がみられないままに、昭和期に移行することになる。このため、戦後間もないころの北本は、短い駅前通りと中山道に沿うごく限られた地区に飲食店、食料品店、衣頰・身の廻り用品店、家具・什器(じゅうき)店などの日常生活に直結した商業空間が形成されたにすぎなかった。それは「街(まち)」と呼ぶにはほど遠い姿であり、むしろ街村(がいそん)や路村(ろそん)(街道に背を向けた農家の並列)に近いものであった。
こうした歴史的状況は、後背農村部へのバス路線の未発達とともに、駅前通りや中山道沿いの商店街の発展と中心地機能の充実を遅らせる一因となった。ちなみに昭和三十年代前半までの金融機関の進出は、埼玉銀行北本支店(昭和十九年)と埼玉県信用金庫鴻巣出張所(昭和二十七年)の二店舗にすぎず、またバス路線も高崎線と競合して中山道を走る東武バス以外にみるべきものはなかった。北本の商店街が線から面への拡大発展期を迎えるのは、昭和四十年代初期以降の都市化に伴う人口増加と、これより若干おくれて始まるモータリゼーションに伴う商圏の拡大まで待たなければならなかった。

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