北本市史 通史編 現代

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第1章 戦後復興期の北本

第7節 民主化される教育

2 教育制度の民主化

石戸中・中丸中が合并し北本宿中が開校する
学校教育法の施行により新制中学校が誕生した。既述のように北本でも、石戸中・中丸中が昭和二十二年四月に発足したが、両中ともそれぞれ石戸小、中丸小との併設でスター卜した。新制中学校の発足に際しては独立校舎の建設が最大の問題であった。政府決定により中学校を独立校舎にすることは決まったものの、建設資金をどうするかが関係者共通の悩みであった。建設は予定したものの、ドッジラインによる財政緊縮のため国庫補助金がカットされ、財源を確保することが困難になった。国庫補助金のカットにより、学校建設資金は地元の県・市町村の負担となった。これは地元にとって大変な重荷であった。そのため、建設を中止するか、他の財源を確保することにより工事を続行するかは市町村長の大いに悩むところであった。寄附金の募集や六三制宝くじの発行により資金の工面も図られたが、中学校舎建設は全国市町村に重くのしかかった難問であり、首長の責任が追及された市町村も多く、当時の首長の辞職原因の第三位であり、この問題のため自殺した首長もあったほどである。

写真20 北本宿中学校校門

昭和25年 本町(北本中学校提供)

表16 一般会計に占める教育費の割合
年  度教育費の割合年  度教育費の割合
昭和24年度 %
18
昭和33年度 %
19
25463430
26373532
27353629
28413712
29243818
30193925
31164028
3215

(『町勢要覧』『市勢要覧』『広報きたもと』などより作成)

このような全国的な状況の中、北本でも独立校舎の中学校建設が急がれることとなるが、校舎建設はまず用地の確保から始めなければならなかった。遊休国有地のある市町村ではその土地の払下げにより土地を確保することもできたが、北本にはそのような土地もなく、また当時の北本宿村は、旧中丸村と旧石戸村の二村の合併によりできた背景もあり、建設位置の決定は村民感情をも考慮に入れなければならない難しい問題であった。数か所あった候補地の中から地形・位置的な面を考慮し、最終的に現在の北本中学校のある場所に建設が決定された。決定された土地は北本中学校歌の中で「・・・松はめぐる・・・」とあるように松や雑木が茂った緑豊かな山林で、位置的には村のほぼ中央であり、通学にも無理のない所であった。松林であった面影(おもかげ)は、現在では文化センターの周囲に一部残されている。
建設場所の決定後は、校舎建設のための山林開墾(かいこん)・整地と建設資金の工面という次の問題が生じた。山林の開墾は昭和二十四年春から多くの村民の勤労奉仕(きんろうほうし)で行われた。また、資金については、村としては財政的に非常に苦しい中で表16に見られるように精一杯の支出をしてきたが、それでも十分ではなかったため、村民から寄附金を募(つの)ることになった。村内で初の独立した中学校の建設ということもあり多くの村民が寄附に応じ、資金を確保することができた。図11はその感謝状である。
このように、村内初の独立校舎をもつ中学校は、村民の全面的協力により建設され、昭和二十五年校舎も完成し、同年四月一日、中丸中、石戸中の統合による北本宿中学校の開校をみた。創立当時の北本宿中の自慢は、県下一とも言われた広い校庭であったが、同時に、掛川校長をはじめとする二六名の教職員の新しい学校作りと新教育に寄せる情熱にも並々ならぬものがあった。

図11 北本宿中学校建設に係る感謝状

(『市史現代』№166より引用)

写真21 北本宿中学校の校庭

昭和25年 本町(北本中学校提供)

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