北本市史 通史編 現代

全般 >> 北本市史 >> 通史編 >> 現代

第2章 都市化から安定成長へ

第1節 町制下の行・財政

1 北本町の発足

「北本宿」の地名を考える
「北本宿」の地名は、「宿」の名がついているとおり、交通とかかわる当地の歴史に深く根ざして いる。『角川日本地名大辞典 11埼玉県』には、北本宿についての記載が各所にみられ、その由来は「戦国期に鴻巣宿の宿場があったが、慶長(けいちょう)年間に宿を今の鴻巣に移転し、当地を本(もと)鴻巣村と改称し、元禄(げんろく)年間ごろ本宿村と改称。もとの宿場の意」とあり、また別のページには「明治二十二~現代の大字名。もとは江戸期の本宿村。はじめ中丸村、昭和十八年北本宿村」「明治十二年中丸村大字北本宿となる」ともみえる。一方、現在浦和市(土合(つちあい))の本宿について、「元宿とも書いた。明治十二年北足立郡に(中略)同名の村があったため南元宿村と改称」したとある。
地名語源としての宿=シュク、ジュクは、いうまでもなく宿場、広義には交通・商業機能を併せもった都市的集落を表している。本(元)=モト、ホンは、旧・昔の意味ではなく、「はじめ、基、本来の」の意味である。したがって本宿=モトの宿場とは、初めの宿場、本来の宿場の意となり、鴻巣宿のいわば親宿であったことを示していよう。ところが明治十二年(一八七九)の郡区町村編制以降、浦和の本宿が北足立郡に編入され、同郡内に二か所のモトジュクができたため、これを区別して北に位置するため北本宿になったのである。
かって、地名としての北本宿は、「本宿」にこそ歴史的な意味があり、それは中世末から近世初期、当地方における一つの中心であったことを示す唯一の痕跡(こんせき)といえるものなのである。町名変更申請書には、「語呂が長く、呼びにくいので宿をなくした」とあるが、歴史地名継承の立場に立つならば、本宿であるべきだったと思われる。しかし本宿の範囲はあまりにも狭く、本宿以外の住民からみれば、一部をもって全体を表すことにはいささか抵抗があったかもしれず、また時代とともに略称「北本」の方が親しまれるようになっていたとすれば、新町にふさわしい町名だったといえよう。

<< 前のページに戻る