北本市史 通史編 現代

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第2章 都市化から安定成長へ

第1節 町制下の行・財政

2 都市化に対応する行・財政

拡張すすむ下水路
昭和二十七年の都市計画法適用申請書(北本宿村一六四)は、駅を中心とする国道沿いの一帯が「一度豪雨に見舞われれば、たちまち付近一面泥海と化し、汚水は住家に浸水」する状態であるといい、下水道整備の緊急性を強調している。同申請書に述べられているとおり、排水不良地に立地するため、下水路に対する住民の関心が高く、都市計画法適用地域に指定された翌年から中山道の側溝工事が始まり、初年度には十三塚(じゅうさんづか)入口より天神社まで、翌年度には天神社以南と、両年度合わせて全長およそ四一〇メートルの排水路が初めて完成した。しかし側溝に集る汚水・雨水を流す在来排水路は、「屈曲(くっきょく)甚(はなは)だしく、幅員(ふくいん)の狭い素掘りの排水路であり」、住宅の増加に伴って「汚水の流出も増量し、路傍に停滞して蚊蠅等の発生、悪臭を発し」(北本都市事業第一下水路事業申請書)という状態であった。それのみならず「豪雨に見舞われれば・・・・住家に浸水」を防げないことは当然であり、昭和三十三年のニ十二号台風、翌年の伊勢湾(いせわん)台風、さらに同三十五・三十六年の集中豪雨の際には、二〇〇戸以上に及ぶ浸水被害が発生していた。
不完全ながら下水路らしい形態を整え始めたのは、第一下水路からであり、その建設は次のような計画をもって、昭和三十八年から始まった(現代No.三十二)。
起・終点 北本宿六三〇~下石戸下一七ー〇
延  長 五九二メートル(うち、四〇九メートルを都市計画事業とする)
幅  員 一.四六メートル~二.四〇メ—トル
排水面積 四二.〇ヘクタール
排水方式 在来排水路敷を利用した開渠(かいきょ)とし、自然流下により排水する
築 造 費 昭和三十八年度     六九〇万四〇〇〇円
     昭和三十九年度以降   三六九万四六二三円
     計          一〇五九万八六二三円
財源内訳 一般財源        七〇六万五七四九円
     国庫補助起債      七〇六万五七四九円
注、以上の築造費見積額は、事業認可申請書に記載の金額であるが、これが認可され、補助金申請では六〇三万円に変更され、さらに入札の結果、四三七万円余に変更されている。最終補助金額は不明であるが、国庫負担率から推察すれば一四五万円余を得たものと思われる。
表17 古市場・勝林下水路事業の計画内容   (昭和43年現在)
項 目延 長 (m)集水面積 (ha)事業費 (万円)
市街地その他
古市場下水路1,82744.521.365.84,650
勝林下水路1258.1121.3129.41,500

(北本市資料より作成)

写真26 都市下水路築造工事

昭和40年 古市場

第一下水路は以上の計画から、在来水路を直線状に改修した程度のものだったことを思わせるが、これに続く古市場下水路(昭和四十一年度着工)、勝林(かっぱやし)下水路(昭和四十五年度着工)は、ヒュ—ム管を埋設した本格的な都市下水路の始まりであり、これを幹線として次々に枝線が延長されていった。
ただし、これらの下水路は、本来雨水の排除が目的であり、自然流下(しぜんりゅうか)方式で終末処理場をもっていなかった。ところが各家庭からは、簡易処理をしただけで雜排水(ざっぱいすい)が流され、河川汚濁が深刻になった。雨水と家庭雜排水とを分離し、家庭雜排水のみを集めて終末処理を行う下水路を都市下水道あるいは公共下水道といい、人口が増加し下水路が拡がれば拡がるほど、それが必要となるが、その場合、数か町村が共同で終末処理を行う流域下水道を設ければ経済的である。こうして荒川左岸流域下水道計画の実現へ向かい始めるが、その具体化はもっと先のことで、しばらくは都市下水路の拡張事業が重点的に行われていったのである。

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