北本市史 通史編 現代

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第2章 都市化から安定成長へ

第7節 学校教育の発展と進む社会教育

2 児童・生徒の増加と学校新設

市内三番目の南小の新設
北本の小学校は、明治時代からの伝統をもつ中丸小、石戸小の二校体制が続き、このことは、北本が行政的に中丸、石戸両村から成り立ってきたことを示すものでもあった。したがって、昭和四十二年に市内第三番目の小学校として南小が開校したことは大きな意義をもつものであった。
表49 北本の小・中学校児童・生徒数の増加率
増加率
年度
児童数の増加率生徒数の増加率
昭和415.0—7.4
429.72.9
437.41.5
4411.0—0.5
4510.02.7
4611.78.1
4718.410.3
4810.811.1
4913.91.5
5012.18.5
519.09.2
527.917.7
535.710.2
545.47.4
551.310.0
561.89.2
571.813.0
58—3.26.1
59—2.13.1
60—6.14.0
61—4.7 —0.1
62—4.7 —0.1
63—4. 0—4.9

(「学校基本調査」などより作成)


南小の建設は、単に児童数の増加だけが理由ではなかった。本来は石戸小の通学区域になっているニッ家・三菱地区内には、距離が近いことから桶川市の小学校に区域外就学をしている児童もいる状況であった(北本五〇五)。また、中丸小・石戸小とも校舎が老朽化(ろうきゅうか)し、空き教室もなく、人口増による児童数の急増に対応できる状態ではなかった。そのため、新しい小学校を建設することが急務の課題となっていた。こうして開校されたのが南小である。昭和四十二年四月に開校した時は、職員二六名、一五学級児童五八七名であったが、校舎が建築中であったため、石戸小、中丸小出身の児童はそれぞれ出身の小学校に分かれて授業を行うことになり、十月に校舎が完成すると、分散していた教職員、児童が合流して、ようやく 一つの学校で教育活動が行えるようになった。
さらに、翌四十三年四月には、二年生から六年生まで七六名が桶川北小から転入してきた。これらの児童はニッ家、三菱地区に住居のあった子供達で、北本市内への通学が遠かったため、より近い桶川北小へ通っていたのである。南小の開校により同小への通学が最短となり区域外就学の問題が解消された。
南小では開校二年目から校旗・校歌の制定にとりかかった。昭和四十二年度に児童からの募集で校章が制定されていたが、校旗はこの校章をもとに作成された。また、校歌は作詞を元県教育長綱島憲次、作曲を元埼玉大講師土肥泰に依頼して作られたが、開校二年目にして校旗・校歌ができたことを記念し、廃品回収により費用をねん出して、校歌の楽譜(がくふ)とソノシートを全児童に配布した。

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