北本市史 通史編 現代

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第2章 都市化から安定成長へ

第7節 学校教育の発展と進む社会教育

2 児童・生徒の増加と学校新設

学校新設ラッシュ

図34 中学校生徒数の増減動向と学校の新設及び増改築

(『北本の教育』・『北本の統計』より作成)

児童数・生徒数の増加に対応するためには、学級増を行うか、または学校を新設するか、二通りの方法がある。増加が数年間で終了するか、増加数が急激でなければ前者の学級増で対応することも可能であろう。しかし、北本の場合の増加は学級増でしのぐことができるような状態ではなかった。
市ではこのような状況に対処するため、学校新設に取り組むこととなり、昭和四十七年、四十八年、五十一年とたて続けに三つの小学校を誕生させた。まず、四十七年、市内五番目の小学校として深井地内に北小が誕生した。北小の建設にあたっては、候補地は、丸子(まるこ)地区、権現堂(ごんげんどう)地区、雑木林地区、田代(たしろ)地区が挙げられた。丸子地区については「候補地の中で一番便利な位置にあるが民家が所々に建てられておりこれ等の立ち退きが問題。鴻巣市に接近」、権現堂地区は「必要面積を確保することは可能であるが高圧送電線が 横断している」、田代地区は「理想的な敷地を確保することは容易であり価格の点も一番低いと考えられるが、バイパスの東側になるので難が多い」(「北本市議会会議録」昭和四十五年度より)とそれぞれ評価され、結局、雑木林地区に建設が決定されたのである。

表51 小、中学校の変還

(北本市資料より作成)


表52 一般会計に占める教育費の割合
構成比
年度
割合(%)
昭和43年度28
4438
4551
4623
4733
4828
4923
5029

(『町勢要覧』『市勢要覧』より作成)


翌四十八年には西小が誕生した。西小では校舎建築が七月になったため、校舎完成までの間は、母体(ぼたい)である石戸小、南小に分かれて授業が行われた。西小は通学区内の人口増が激しかったため、開校まもなく市内で最多の児童数を誇る小学校となった。
昭和五十一年に市内七番目の小学校として東小が開校された。東小は西小と同じように児童数が急増し、またたく間にマンモス校となった。
中学校の急増期を迎えて、昭和四十七年に北本中から東中が分離新設されたが、その後も両校の生徒数の増加は続いた。このため五十三年に北本中の一部学区を分けて西中の分離新設が行われた。さらに、北本中、東中、西中の三校では、依然として生徒数の増加が続いた。そこで五十七年、増加率が特に高く、かつ学校の空間配置などを考えて、東中学区内に宮内中が分離新設され、ここに大規模校の北本中を始めとして、JR高崎線の東西に二校ずつ計四校の中学校が展開することになった。
この後、昭和六十年代の生徒数漸減期に入って、対症療法的な教室増設による増加対策の限界を、学区再編成を伴う新設校建設によって乗り切る、という市の苦しい教育行財政の繰り返しに、ようやく安定期が訪れることになった。

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