北本市史 資料編 原始

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第1章 北本の遺跡概観

第1節 北本における考古学史

2 明治時代における研究

埼玉県における近代考古学の先駆は、モースの大森貝塚の発掘後間もない、明治十一年(一八七八)の黒岩横穴群の発掘である。つづいて、明治二十年の東京帝国大学の大学院生坪井正五郎らによって行われた、吉見百穴の発掘である。ともに、隣町の比企郡吉見町での大きな発掘調査であった。
その後、明治三十年になると東京帝国大学によって、『日本石器時代人民遺物発見地名表』が刊行されたが、大正六年の第四版には、埼玉県内に所在する四五六か所の石器時代遺跡と、その出土品が収録された。その中で現在の北本市内の遺跡として五遺跡が、つぎのように掲載されている。
 石戸村・高尾          磨石器   野中完一  二三〇
 同村・八十(ママ)塚山     打石器   同     同
 中丸村・深井、摺鉢稲荷附近   土器     阿部正功  八八
 同村・宮内、氷川社附近     土器    同     同
 同村・古市場稲荷社附近     土器    同     同
第一段は、遣跡および遺物発見地の所在地を掲げ、第二段には上掲地から発見された遺物を記入している。そのうち、磨石器とあるのは磨製(ませい)石器の略、打石斧とあるのは打製(だせい)石斧の略である。第三段には事実報告者、遺物所蔵者を記し、そして最下段にはその遺跡または遺物に関する記事を掲載した雑誌の号数を示している。単に数字のみのものは『人類学雑誌』の号数であるとのことである。
一番目に書かれている高尾所在の遺跡は、現在高尾地区で所在の確認されている遺跡のうち、いずれに該当するかわからない。
二番目の遺跡は、所在地として「八十塚山」と書かれているが、これは八重塚山の誤記で、本書でいう八重塚遺跡と同一遺跡であろう。三番目から五番目までは、目標となる神社名を記しているので、正確な所在地を知ることができる。出土遗物の土器とあるのは、縄文土器のことであろう。

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