北本市史 資料編 原始
第1章 北本の遺跡概観
第1節 北本における考古学史
4 昭和四十年以降の調査・研究
昭和四十年代になると、三十年代の後半からはじまった経済の高度成長はさらに加速し、これに伴う土地開発事業が急増し、荒川沿岸では土取り、中央部では住宅建設により埋蔵文化財の破壊が相ついだ。しかし、埋蔵文化財台帳をもたない教育委員会では、対処の仕様がなかった。そこで実施されたのが、北本管内の遺跡所在分布調査であった。この調査は昭和四十四・四十五年度にわたって、町教育委員会が主体となって、文化財保護審議委員を中心に吉川國男の指導のもとにすすめられた。その結果、北本町内に六一か所の埋蔵文化財包蔵地(遺跡)が所在する実態を把握することができた。この中には一二基の古墳が存在することも明らかになったのをはじめ、散布遺物の採集を行い、各遺跡の範囲を地番でおさえて、遺跡の性格・内容を記録するという徹底した調査であった。昭和四十六年になると、この分布調査の結果と三編の発掘調査報告書を内容とする『北本市の埋蔵文化財』(北本市文化財調査報告書第一集)が北本市教育委員会から刊行され、以後の埋蔵文化財保護行政の基礎的な資料となった。
埼玉県教育委員会も、昭和四十六年度から四十九年度にかけて、再び全県的な分布調査を実施した。この調査方法は、北本町が行なったように遺跡を面でとらえ、地番で把握するものであった。北本市内の調査については、「北本市遺跡地名表」(『北本市の埋蔵文化財』所収)のデータがそのまま採用されたが、県教委の調査では古墳群などは一基一基数えるという方式を採ったため、北本市内の遺跡数は全部で、五九を数えるに至った。
これらの遺跡分布調査と相前後して、昭和四十年代から発掘調査が急増してきた。そこで過去における北本市内で行われた発掘調査の実施状況を一覧表で示すと、つぎのとおりとなる。
北本市埋蔵文化財発掘調査実施一覧(平成元年十一月一日現在)
遺跡名 | 所在地 | 調査年月日 | 発掘主体 | 調査担当者 |
八重塚古墳群 | 荒井字八重塚 | 昭和三五・八・一七~八・ー九 | 浦和第一女子校 | 柳田敏司 |
下沼遺跡(高尾独木舟) | 高尾字下沼 | 昭和三九・三・二三~二四 | 慶応大学 | 清水潤三 |
宮岡Ⅱ遺跡 | 高尾字宮岡 | 昭和四四・五・一〇~五・一二 | 北本町教委 | 吉川國男 |
宮岡氷川神社前 | 高尾字宮岡 | 昭和四四・一一・二二~二五 | 北本町教委 | 吉川國男 |
同 | 〃 | 昭和四五・四・四~一〇 | 北本町教委 | 吉川國男 |
中井Ⅰ号古墳 | 高尾字中井 | 昭和四四・一〇・二八~三〇 | 北本町教委 | 横川好富 |
宮岡Ⅰ遺跡 | 高尾字宮岡 | 昭和四六・二・二九~三・二 | 北本町教委 | 塩野博他 |
上手遺跡 | 古市場一丁目 | 昭和五一・八・一~九・二 | 上手遺跡調査会 | 柿沼幹夫 |
榎戸Ⅱ遺跡 | 下石戸下字久保 | 昭和五三・七・一五~八・一五 | 榎戸遺跡調査会 | 松本富雄 |
石戸城跡 | 石戸宿六丁目 | 昭和五四・一〇・一~一〇・二七 | 北本市教委 | 下村克彦他 |
八重塚遺跡 | 荒井字南 | 昭和六一・九・一〜六二・二・一七 | 北本市教委 | 岡部正安 |
同 | 〃 | 昭和六二・一〇・一九~六三・三・一一 | 北本市教委 | 岡部正安 |
堀ノ内館跡 | 石戸宿字堀ノ内 | 昭和六一・九・一~六二・一・二七 | 北本市教委 | 岡部正安 |
同 | 石戸宿三丁目 | 昭和六二・一・二六~二七 | 北本市教委 | 岡部正安 |
同 | 石戸宿字堀ノ内 | 昭和六二・一〇・一九~六三・三・一一 | 北本市教委 | 岡部正安 |
諏訪山南遺跡 | 石戸宿字堀ノ内 | 昭和六三・九・一~一二・二八 | 北本市教委 | 岡部正安 |
諏訪山北遺跡 | 荒井字八重塚 | 昭和六三・九・一〜二一・二八 | 北本市教委 | 岡部正安 |
以上、北本市内における遺跡の記録、分布調査および発掘調査の経過の概要について、時期を追って記してきた。