北本市史 資料編 原始

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第2章 遺跡の概要

第1節 荒川沿岸の遺跡

中井一号古墳 (大字高尾字中井)
北袋Ⅶ遺跡の中の一古墳である。中井二号古墳とも至近距離であり、中井古墳群として認識するのが適切である。
調査の経緯 昭和四十四年十月二十八日から三十日の三日間発掘調査を実施した。わずかに盛りあがっている部分に砂質凝灰岩(ぎょうかいがん)の小片が散布していることに注目し、そこをボーリングで精査し、内部主体部の範囲を把え、これを中心にA~Cの三トレンチを設定した。
トレンチを掘りはじめるとすぐに石室の後込(あとご)めに使用した青灰色~黄灰色の粘土や砂質の凝灰岩が出土した。これらの粘土や凝灰岩はすべて石室内に投げこまれたものであり、内部や側壁等が相当に攪乱(かくらん)されていることが推測された。これらを取りのぞくと、築造当時の位置に現存するものはわずかであり、棺床面(かんしょうめん)も全城にわたって攪乱(かくらん)を受けており、明確に把えることができなかった。
周堀はすでに北・西側の土取りによる断面にその一部と考えられるものが現れていた。A・Bトレンチ内でも周堀の一部が確認されたが、Cトレンチでは土層が攪乱されていてはっきりしなかった。さらにBトレンチで周堀が切れていることが判明したため、Aトレンチの間にさらにE・ Fトレンチを設定して追求した結果、幅約五・七メートルのブリッジの存在が明らかとなった。
またCトレンチの内部主体部に寄ったところから、多量の埴輪片が発見されたので、Bトレンチとの間にD卜レンチを設けて調査したが、不規則に破片が散布するのみで、埴輪列その他の施設等は確認できなかった。
墳丘と周堀 墳丘はすでに削平され、わずかに五〇センチ程度確認できただけである。周堀は内部主体を中心に直径約二十メートルのほぼ円形にめぐっていた。南東部で約十一メートルを残して切れており、さらに南東方向にのびる堀が両方ともに存在している。それから先は未調査で不明である。前方後円墳の可能性もあるが、周堀の連続がスム—ズではなく、開口部であろう。周堀は幅二~二・五メートル、深さは最も深いところで一・一メートルあるが、平均して五〇センチぐらいである。周堀底面は全体的にほぼ平らである。

図20 中井1号古墳実測図

内部主体部 ほぼ東西の主軸を持つ両袖(りょうそで)型の横穴式石室(よこあなしきせきしつ)で、羨道(せんどう)を西に向けている。砂質凝灰岩(ぎょうかいがん)の切石積(きりいしづみ)で、間に粘土を詰めて、比較的整然と積んでいる。全長四・一六メートルの小型の石室であるが、一応羨道・前室・玄室部を有している。
羨道部は長さ六六センチ、幅九六センチである。西に向かうにつれ、側壁は上面が傾斜し、幅狭くなっていく。封鎖石はなく、建築当初からなかったものと推察する。
羨道部と前室部の間には幅三四~三八センチの切石が粘土を間に詰め、三段に床面から約四ニセンチ上まで積んでいた。これが封鎖石を兼ねているのであろう。前室部は長さ八八センチ(袖口まで)、幅八八センチ、高さ八四センチである。側壁はほぼ七段積んでいたらしいが、上部は攪乱されている。
玄室はいわゆる三味線胴部の変形といえるものである。すなわち奥壁と左側壁はやや張りを持っているが右側壁はほぼ直線的であり、両袖の形がやや異なっている。長さ二・二六メートル、幅は奥壁で一・八メートル、前室付近で一・七六メートル、中央部最大幅一・九メートルである。北側壁・奥壁は三~四段、南側壁は一段のみ残存していた。羡道部や前室の様相から推測して、ほぼ一・三~一・五メートル、約ハ段積んでいたと推測する。天井石らしいものは発見されなかった。棺床(かんしょう)面も明瞭にとらえられない状態であった。

図21 中井1号古墳石室実測図

玄室内副葬品 直刀(ちょくとう)片ニ点が出土したのみである。小片の方は長さ三・八センチ、幅一・七センチで刃部片である。大きい方は長さ六センチであるが、さびもひどく判然としない。
埴輪(詳細はクリックしてご覧ください)図22の1は人物埴輪の首である。色調は淡赤褐色を呈している。胎土に砂料を含む他、径四~五ミリの大粒のチャート粒を少量含んでいる。現存高一四・四センチ、幅一〇・八三センチである。顔面部の欠損は、額の突起物・鼻・両頰・耳飾が剝落しているのと、ロから顎、頭頂部と右側面部を欠失している。内面に輪積み痕があり、首の下地を輪積みにより作っている。ほぼ円简状の下地を作ったのち、額部をのせ、全体にハケ整形を施している。その後顔面に粘土を塗り、まゆげや鼻を貼り付けて作成している。上端部は接合部から剝がれたものである。後頭部の位置からして、扁平な髷が斜めに付けられていたものであろう。額の突起物の基部には条線が残っており、髪の一部を額で束ねていたらしい。まゆは粘土紐により盛りあげて表現している。左耳部は、頰の横ぐらいに下った位置に、円形の剝落痕がある。耳飾の跡である。顔面にはまぷたの上から頰にかけて、直線状の赤彩を施している。鴻巣市生出塚(おいぬづか)三・四・八号窯出土の農夫埴輪と同じ赤彩文様である。北本市周辺の特徴ある赤彩のーづであろう。
写真9は人物埴輪の首である。色調は赤褐色を呈している。胎土に砂粒を含んでいる。現存高一九・九センチ、復原幅二七センチである。額と顎と右側面が遺存しており、他は欠失してハる。輪積みにより基本形を作っているが、内面はナデられ、輪積み痕を残していない。楕円形の筒を下地とし、ハケ整形したのち、まつげの端から顎にかけての突出部を貼り付けている。額にかすかにハケ目痕が残っていることからすれば、顔面部に化粧粘土は塗っていないようだ。1と同様に上端部は接合面で剝がれたもので、やはり扁平な糸巻状の髷が付いていたものであろう。側面のまゆげと同じ高さに、細い粘土紐を貼り付けている。髪をしばっているらしい。耳輪の剝落した跡が、頰の高さにある。円形の粘土紐を貼りつけていたものである。Ⅰとともに耳の位置が極めて低いのが特徴である。

図22 中井1号古墳出土遺物実測図(1)

写真9 中井1号古墳出土遺物

図23の3~5は円筒埴輪の口縁部片。赤褐色を呈している。胎土に砂粒を含んでいる。口縁はすべて外反している。口唇は角頭状を呈しているが、3・5はハケ整形後、指でナデており、4は凹線を入れている。器面には縦方向にハケ目を入れ、裏面は横方向にハケ目を入れている。たくさんの埴輪片のなかで、口縁部はわずかにこの三点だけである。いかに形象埴輪が多いかが知られる。
図22の2・図23・24の6~17は円筒埴輪の基底部片である。2は第一凸帯から基底部がようやくひとめぐり接合する。唯一の器形を知ることができる個体である。現存高二八・二センチ、基底部径二〇・九センチである。色調は赤褐色を呈している。胎土に砂粒、石英粒、チャー卜粒を含み、大きな石粒は径十三ミリを測る。器壁岸は平均して一・五ミリである。胴径がほとんど変化しない円筒形で、凸帯は二本めぐっている。最下段の第一凸帯は幅二センチ前後で、基底部より五・五センチ上にめぐらしている。ほぼ台形状の凸帯である。第一、第二凸帯間は十七・五センチ前後である。第二凸帯は剝落し、地のハケ目が出ている。第一、第二凸帯の中間よりわずか上部に透孔(すかしこう)を二孔、相対する位置に穿(うが)っている。径は左右六・六センチ、上下約五・六センチであり、もう一孔もほぼ同大である。器面のハケ目は縦方向で、施文具の幅は最大二・九センチ、ハケ目数十三本まで計測できるが、多くは二~二・五センチ幅で施文を重ねている。内面はへラ削りだけで、ハケ整形が施されていない。基底面は平らな部分と、多少凸凹のある部分がある。6~10・14・15の色調は赤褐色、11・12・16・17は暗黄褐色、13は明赤褐色を呈している。なお12と17は同一個体で、12の左側に17が接合する。第一凸帯から基底面までの間隔は12が八・五センチ、16が五・七センチである。12の上端に透孔を穿(うが)っている。内面は6・7・9・10・13~16が無文で8・11・12・17はハケ目を施している。6・9の基底面には、下に敷いた割竹状の棒の圧痕があり、11の基底面にはハケ目が施されている。図25・26の19~26・28は透孔を穿っている破片である。色調は20が暗黄褐色で、他は赤褐色を呈している。胎土は前記と変わらないが、大粒の石は含まれていない。透孔の位置は凸帯の上にあるにしろ下にあるにしろ、凸帯に近い位置で穿っている。器面は縦方向のハケ目で、内面はナデのみ、輪積痕がみられる。

図23 中井1号古墳出土遺物拓影図(1)

図24 中井1号古墳出土遺物拓影図(2)

図25の18・図26の27・図26~28の29~48は円筒埴輪と形象埴輪(けいしょうはにわ)の円筒部片である。あるいは朝顔形円筒埴輪も含んでいるかもしれない。色調は赤褐色を呈している。胎土に砂粒を含んでいる。36・40・43・47は頸部に凸帯をめぐらしている。36は凸帯幅が二・六センチ、台形を呈しており、上辺の幅が一~一・ニセンチ、高さが一・三センチと大きな凸帯である。器面は縦方向のハケ目整形痕が入り、内面は31・33・35・37にハケ目痕があり、36・43は屈曲部までハケ目痕がある。他の内面は無文である。
図29の49・50は形象埴輪の下端部である。色調・胎土は他と変わらない。49は末端が外反している。器面は縦方向のハケ目整形で、内面は外反部分だけ横方向のハケ目整形を行なっている。50は湾曲しながら広がっていき、端部で一旦軽く凹んでから外反している。端部の内側をハケでそいでいる。ハケ目整形を施し、末端をナデて消している。内面は無文である。

図25 中井1号古墳出土遺物拓影図(3)

図26 中井1号古墳出土遺物拓影図(4)

図27 中井1号古墳出土遺物拓影図(5)

図28 中井1号古墳出土遺物拓影図(6)

図29・30の51~64はまったくの中間部の破片で凸帯も透孔もない。62が黒褐色を呈し、他は赤褐色を呈している。胎土は他と変るところがない。形象埴輪片も多いであろう。56・64の上端は横にナデてハケ目を消しており、凸帯に移行するなど変化するきざしが見えている。

図29 中井1号古墳出土遺物拓影図(7)

図30 中井1号古墳出土遺物拓影図(8)

図31の65~78は厚さ七~ー〇ミリの薄手の破片である。形象埴輪の細片である。
図32の79~86は人物埴輪片である。色調は80が赤褐色で、他は淡赤褐色を呈している。胎土に砂粒を多量に含むが、大粒の石は含んでいない。79~82は本体から突出するように貼り付けられた部分である。斜め下に向かって幅二センチ前後で突出しており、鍔(つば)のような状態でめぐるものである。81はナデ整形のみ、他はハケ目整形痕がある。鍔の内側にも横位のハケ目整形痕がある。82では剝落面にもハケ目痕がある。
83~86は衣の裾部片である。断面三角の粘土を貼り付け、本体から突出させて裾を表現している。剝がれた下にもハケ目痕があり、ハケ整形後貼りつけていることが看取される。

図31 中井1号古墳出土遺物拓影図(9)

図32 中井1号古墳出土遺物拓影図(10)

写真10のⅠ・2は糸巻状の髷(まげ)である。3は顔面である。鼻は三角形に高く付き、目の切り込みの下端と、ロの切り込みの上端が残っている。4・5は顔の側面部で耳輪が付いており、4の下端は首飾りの円形付文が剝がれた跡がある。直線であるが、頸にあたるのである。6~9は、首筋が貼付されている。6は強い屈曲で突出している部分があごである。10~17は腕である。手首に首輪と同じ円形付文で腕輪を表現している。12・17によれば、腕を棒状に作っておいて、肩部へ差し込んだものである。写真11の1は細い粘土紐を強く屈曲し、薄い粘土板を巻いている。2~4は衣服の前の合わせで、結んだ紐を貼付した破片。5・6は下端だけが本体と接続する突起物である。7は上端と下端が本体に接続し橋状になるらしい。8は半円を描く突起物である。10・11は美豆良(みずら)風の髪で下端が、T字状になっている。9は端に粘土板を貼り付けている。左もしくは下へさらにのびており、左もしくは下端で本体に接続する。12は一方が強く屈曲する、器面に粘土紐を貽り付けている馬形埴輪の一部であろう。13は最厚部で五・五センチ。
粘土板を巻いて作っている。本体に差し込んだことが剝離面で看取される。表には幅広の粘土紐をめぐらし、細い粘土紐を直角に貼付している。手の部分だろうか。

写真10 中井1号古墳出土形象埴輪片(1)

写真11 中井1号古墳出土形象埴輪片(2)

その他の出土遺物(詳細はクリックしてご覧ください)縄文土器が数片出土している。諸磯(もろいそ)C式・勝坂式・加曽利E式土器片である。その他石器ではないがチャートの石片が出土している。
周堀内より弥生時代後期の前野町(まえのまち)式の大形壺の肩部の破片が出土している。糸状の撚糸を使用し、原体末端にS字結節を作り出した単節縄文を二段施文し、それより下部を朱彩した破片である。また、古墳時代前期の五領(ごりょう)式の壺の頭部以下が半個体分出土している。

写真12 中井1号古墳石室

写真13 中井1号古墳羨道

写真14 中井1号古墳人物埴輪出土状態(1)

写真15 中井1号古墳人物埴輪出土状態(2)


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