北本市史 資料編 原始

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第2章 遺跡の概要

第1節 荒川沿岸の遺跡

縄文時代
草創期・早期  多縄文系以前の本格的に古い土器はまだ見つかってはいないが、宮岡氷川神社前遺跡から有舌尖頭器(ゆうぜつせんとうき)が一点採集されている。鴻巣市域からもよく似た有舌尖頭器が出土しており、大宮台地の北端部で同様の文化が存在したことを予測できる。土器も早晩出土することであろう。
前葉では井草(いぐさ)式・夏島(なつしま)式・未命名型式がごく少量見つかっている。とくに宮岡Ⅱ遺跡の未命名型式土器片は、稲荷原(いなりはら)式と東山式の中間に位置する可能性がある。中葉では石戸城跡から田戸(たど)下層式が一片出土している。末葉では石戸城跡で野島式がまとまる気配がある。茅山(かやま)下層式は、少量ずつであるが、いたるところで出土している。茅山上層式以後の土器が一片、城中Ⅳ遺跡から出土している。
前期 初頭の花積(はなづみ)下層式は、北袋古墳群Ⅰ・宮岡Ⅱ遺跡で散見される。いずれもⅠ式で、Ⅱ式はない。前葉の二ッ木式・関山式では、宮岡Ⅱ遺跡で二ッ木式がまとまって出土している。台地斜面部からの出土であり、遺跡の性格が注目される。台地上は確実に集落跡となるであろう。まだ県内でも調査例の少ない時期であり、貴重な遺跡である。関山(せきやま)式は宮岡Ⅱ遺跡と横田薬師堂北遺跡でまとまっている。この二遺跡は同一台地の北端と南端であり、相互関係が問題となろう。諸磯(もろいそ)式はいずれも断片であるが、宮岡Ⅱ遺跡ではC式の大形破片が出土している。諸磯式は、江川水系で多く見つかっており、活動の場が台地の奥になりそうである。荒川沿岸地域との違いが注意される。十三菩提(じゅうさんぼだい)式は石戸城跡・城中Ⅰ遺跡で各一片見つかっている。他地域の土器が入り込んでいるのも見のがせない。北袋古墳群Ⅰで浮島(うきしま)Ⅱ式が一片出土しているのと、宮岡Ⅰ遺跡での籠畑(かごはた)Ⅱ式の大形破片である。浮島式は諸磯式と同じ時期に霞ヶ浦沿岸に分布の中心がある土器であり、籠畑Ⅱ式は前期末の時期に長野県地方に分布の中心がある土器である。これらの地域との交流の内容が問われなくてはならない。
中期 土器片は多くの遺跡で出土しているが、住居址は八重塚遺跡A区から一軒見つかっているだけである。加曽利(かそり)EⅡ式期の住居址である。八重塚遺跡は広い台地上に位置し、大集落を営むことも可能な立地である。墓である土壙も発見されている。住居は一軒ではなかったはずで、周辺遺跡との関連も追求されねばならない。
後期 初頭では称名寺(しょうみょうじ)Ⅱ式の土壙(どこう)が八重塚遺跡A区で見つかっている。どこかにあるであろう住居址を見つけたいものである。前葉では堀之内Ⅰ式が、宮岡氷川神社前遺跡・宮岡Ⅱ遺跡で少しまとまって出土している。堀之内Ⅱ式・加曽利B各式・曽谷(そや)式・高井東式は断片的に見つかっている。安行(あんぎょう)Ⅰ式・Ⅱ式も宮岡氷川神社前遺跡が中心遺跡である。
晚期 宮岡氷川神社前遺跡から、前葉から中葉にかけての土器が多量に出土している。土偶(どぐう)・ 土版(どばん)・耳飾りなどの精神生活を示す遺物や、石斧・石鏃・石錘(せきすい)など生産道具も出土している。住居址こそ見つかっていないが、長期間にわたって集落が維持されたことは確実である。晩期遺跡の通例で東北地方の土器も入ってきている。大洞(おおぼら)B-C式・C₁式・C₂式の他大洞A式が一片出土している。なお、西側の斜面部と沖積低地からも土器が出土している。
黒耀石 黒耀石(こくようせき)の原産地固定分析を進めており、一部は結果が出た。原産地は長野県の和田峠、栃木県の高原山(たかはらやま)、遠く伊豆七島の神津島産の石材も搬入されている。交易品である。

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