北本市史 資料編 原始

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第2章 遺跡の概要

第1節 荒川沿岸の遺跡

八重塚(やえづか)古墳群 (大字荒井字八重塚)
古墳群は北と南に小支谷が入り、西に向けて突出した台地上に位置している。標高は二六メートル前後である。北側の支谷との比高差は九メートル前後、南側の支谷との比高差は八メートル前後である。諏訪山南一号古墳は、南側小支谷をはさんだ対岸の台地の南縁に在り、直線にして四五〇メ ートルほどに位置している。
地域の人々は、古くから八重塚山と呼び、古墳のある所として認識していた。しかし、三基の古墳が所在することが確認された昭和三十五年の時点で、盛り土があったのは今も残る二号墳だけであった。

図120 八重塚古墳群位置図

一号墳
昭和三十五年八月十七日〜十九日に、埼玉県立浦和第一女子高等学校社会クラブが発掘調査した。関東東山農業試験場(後に農事試験場と改正)の畑作部が新設されるにあたり、開さくした道路に、古墳の石室がかかり発見されたものである。
盛り土は無く、石室から約一〇メートル離れたカツテイング面に、周堀らしい落ち込みが記録されている。幅は一・五メートル、深さは地表面より一メートルで、底部はすり鉢形をなしていた。この周堀の位置と、三号墳の石室の位置からして、一号墳は径二〇メートルほどの円墳と推察する。
石室は、玄室(げんしつ)の八割ほどが残り、羨道(せんどう)部は道路で破壊されていた。凝灰岩切石積(きりいしづみ)の石室で、恐らく横穴式石室(よこあなしきせきしつ)であったろう。全長約二メートル、幅は最も広い部分で一・五メートルほどである。やや胴張りのある石室で主軸はNー44°ーWである。ローム層を掘り込み、搗(つ)き固め、凝灰岩切石を配置し、内部にバラスを敷き詰めている。基段の切石は約一〇度内傾している。奥壁は一枚切石で、幅七〇センチ、高さ七五センチ、厚さ三〇センチである。所により二段目の積石まで遺存していた。
出土遺物は、玄室の床から出土した鉄製刀子(とうす)のみである。刀子は全長一二センチ、幅は先端近くで一センチ。他は一・三センチである。
二号墳
唯一墳丘が残っている古墳である。現状では東西径三〇メートル、南北径二二メートル。墳丘高一・七メートルである。東裾部が若干流されており、径二二メートルぐらいの円墳であろう。
三号墳
一号墳の西約二〇メートルの所で、道路工事により切断された台地の一部に石室が確認されている。盛り土は全くなかった。台地先端部に位置した古墳である。
なお、一号墳の南一〇〇メートルぐらいの地点から、須恵器が一九三片出土したと記録されている。大形甕の破片で、頸部、口縁部に二条の波状文を有し、また、青海波をもっている。器厚一・五〜二センチであった。恐らく斜面部からの出土である。
文献 県立浦和第一女子高等学校社会クラブ「八重塚第一号墳」『ゆうかり』一九六〇

図121 八重塚1号墳石室実測図

写真74 八重塚2号墳現状

図122 八重塚2号墳実測図

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