北本市史 資料編 原始
第2章 遺跡の概要
第2節 江川流域の遺跡
榎戸Ⅱ遺跡 (大字下石戸下字久保)この遺跡は、榎戸Ⅰ遺跡と谷地をはさんだ北側の台地上に広がっており、沖積面との比髙は約一メートルである。遺跡の範囲は南北二〇〇メートル、東西一五〇メートルほどで、縄文時代早期(茅山式)・弥生時代中期(宮ノ台式)の土器片および、土師器(はじき)片(真間(まま)式)が散布する。また南部には榎戸館が位置している。
昭和五十三年七月十五日から八月十五日にかけて、発掘調査が行われており、以下その概略を述べたい。
榎戸遺跡の発堀調査概要
調査対象地 北本市大字下石戸下字久保耕地六七一、六七二番地
調査面積 一四三九平方メートル
調査期間 昭和五十三年七月十五日~八月十五日
調査主体 北本市榎戸遺跡調査会
図165 榎戸Ⅱ遺跡位置図
図166 榎戸Ⅱ遺跡発掘調査範囲全測図
調査の概要 調査区域を五×五メートルのグリット(方形区画)に分け、そのグリット内の四分の一にあたる二・五×二・五メートルを手掘りによって掘り下げ、遺構の認められた部分を拡張していくという方法がとられた。その結果、縄文時代の後期初頭の土壙(どこう)一基、弥生時代の終末期から古墳時代初頭の住居址二軒、平安時代の住居址一軒が検出された(図166)。
縄文時代の土壙 平面形はほぼ円形を呈し、径七〇×六〇センチ、断面形は擂鉢(すりばち)形を呈し深さは口ーム層上面から四〇センチを測った。出土遺物としては、土壙内およびその周辺のグリットから称名寺(しょうみょうじ)式土器の破片が多量に検出された。
図167 榎戸Ⅱ遺跡第1号住居址実測図
写真88 榎戸Ⅱ遺跡第1号住居址
第一号住居址は、四・六×三・六メートルの大きさで、長軸は東西においていた。炉は地床炉であり、東北隅に近い方にあった。柱は三本検出され、東北隅と南東隅、南西隅寄りにあった。地壁下には周溝(二五〜二〇センチ幅)もあったが、入口があったとみられた南東辺には見られなかった。この住居址から出土した土器は多くはなく、手捏(てづく)ね(手ひねり)の土器、器台(きだい)などであり、主要なものは図169に示した。図169の1・3は手捏ね土器で、祭祀用に使われたと考えられる。2もその可能性がある。5は小形の甕、7は壺の外反する口辺部の破片で折返しの部分には羽状の細縄文を施している。4・6・8は器台(きだい)であり、用途としては丸底の壺や坩(かん)などをのせるもので祭祀に使われることが多かったと考えられている。
第二号住居址は、一号住居址の南約七メートル離れたところにあった。その南隅は平安時代の住居址によって切られていた。平面形は長方形をなし、長辺は四・一メートル、短辺は三・二メートルある。各隅に柱穴があり、炉東辺寄りにあった。地壁下には周溝をめぐらしていた。この住居址は火災で焼け落ちた状態で埋まっており、床面(土間)から構造材の炭化材が約ー立方メートル分出土した。遺物としては、床面から、完形にちかい台付甕三個体をはじめ、六個体の土器が検出された。図170の1・3および図171の1は台付甕、図170の2及び、図171の2は坏、3は台付甕の台部と考えられる。一号・二号住居址とも土器は、前野町式から五領式にかけての時期(三〜四世紀)のものである。
平安時代の住居址 第三号住居址は、確認面から床面まで約一メートルと深かった。もちろん竪穴住居で、前記の第二号住居址を切っていた。一辺が約三・一メートルの方形で、柱穴は竪穴内には検出されなかった。北辺にカマドをもっていたが、このカマドは、一メートルをこす長い煙道をもつ特異なものであった。出土遺物としては、図172の1の鉄製の刀子(小刀)のほか、図示したような須恵器や土師器(はじき)の甕(かめ)があった。時期としては、平安時代でも古い段階、すなわち九世紀ころと推定される。
その他の遺物 表土・攪乱(かくらん)土からは、先土器時代のマイクロブレイド(微小石核。細片を剝(は)ぎとるための調整した元石(もといし))や縄文時代の諸磯(もろいそ)式・加曽利E式土器などの破片も少量検出された。
図168 第2号(左)・第3号(右)住居址実測図
写真89 榎戸Ⅱ遺跡第2・3号住居址
図169 榎戸Ⅱ遺跡第1号住居址出土遺物実測図
図170 榎戸Ⅱ遺跡第2号住居址出土遺物実測図(1)
図171 榎戸Ⅱ遺跡第2号住居址出土遺物実測図(2)
図172 榎戸Ⅱ遺跡第3号住居址出土遺物実測図
写真90 手捏ね土器(図169-3)
写真91 台付甕(図170-3)
写真92 坏(図170-2)
写真93 坏(図171-2)
写真94 台付甕(図170-1)
写真95 台付甕(図171-1)