北本市史 資料編 原始

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第2章 遺跡の概要

第3節 赤堀川流域の遺跡

上手(うわで)遺跡 (古市場一丁目)
この遺跡は、大宮台地の東縁部にあるが、北側には東側の低地から湾入してくる浅い谷がある。標高は一六メートルあり、北側の谷とは比髙一メートルである。現状は山林、宅地、工場となっている。遺跡の範囲は、新日本瓦斯(ガス)を中心に東西四〇〇メートル、南北一五〇メートルである。

図205 上手遺跡位置図(網かけ部分は発掘調査範囲)

散布している遺物は、縄文時代の早期・前期・中期・後期の土器、古墳時代から歴史時代にかけての土師器、陶器類の破片などがある。
この遺跡の性格は、縄文時代~歴史時代にかけての複合遺跡で中心部については、昭和五十一年八月一日〜九月二日、新日本瓦斯(ガス)株式会社の工場建設に伴って、北本市遺跡調査会によって発掘調査が実施された。その調査結果については、上手遣跡発掘調査報告書が刊行されているので、同書からあとで抄録する。
また、昭和六十三年には、この遺跡の西半部に古代末〜中世の土豪の館に伴うとみられる土塁や堀跡が発見された。この遺構等については、「第三巻下古代・中世資料編」の城館跡の項に詳述している。
上手遺跡の発掘調査結果
この発掘調査は、新日本瓦斯株式会社の工場建設に伴って約一八〇〇平方メ —トルを対象として実施したものである。
調査の経過 北本市教育委員会では当地に工場が建設されることになったため、文化財の取り扱いについて会社側と協議を行い、市文化財保護審議会委員の下村克彦氏に試掘調査を依頼した。その結果、縄文時代中期の土器などが出土し、確実に遺跡が存在することが判明したので、会社側に事前に記録保存の措置を講ずるよう要請し、左記のように発掘調査が実施された。
一 発掘調査主体者 北本市遺跡調査会
二 発掘調査担当者 柿沼幹夫
三 発掘調査対象地 大字古市場字上手二八一~二八四番地(現古市場一丁目)
四 発掘調査の期間 昭和五十一年八月一日〜九月二日
遺跡の立地と環境 上手遺跡は、大宮台地でも北東部の東縁にあたり、元荒川の沖積地に臨む舌状台地のつけ根に近い位置に立地する。先述したように、北本市から鴻巣市にかけての元荒川に面する台地は、低地との境界線が緩傾斜であるが、上手遺跡の位置は標高一六メートルを測り、突出するような舌状台地になっており、台地と低地の境界線が比較的明瞭である。遺跡は、元荒川の沖積地から連続する北東ー南西方向に緩傾斜をもって入り込む谷に面している。この谷は、なだらかに開析された台地上の谷であり、水田となっている。対岸には、大宮台地から切り離された島状の台地が鴻巣市西中曽根付近にあり、また、鴻巣市笠原から菖蒲町栢間にかけては、大宮台地でも笠原支台と呼称される島状の台地が点々と広がっている。また、元荒川に沿って自然堤防が延びている。したがって、遺跡が面する沖積地は、台地や自然堤防に囲まれて谷底平野になっている。この谷底平野には、小沼統と呼ばれるグライ土壌が分布している。
調査の概要 調査に当たっては、対象区域に磁北を軸にして一二×一二メートルの大グリッド(方形区画)を設定し、それらを更に四×四メートルに分割した。
発掘された遺構は、縄文時代中期末から後期初頭にかけての住居址と、古墳時代前期の住居址が主体である。
縄文時代の住居址は五軒確認された。みな竪穴式で調査区域の西南部にまとまっていた。いずれもローム層への掘り込みが浅く、遺存状態は良好ではなかった。J四号・J五号住居址は、炉跡のみが確認されるにとどまった。このほか、C3グリッド4・5・7・8と、D4グリッド9で土器がまとまって出土した。
これに対して、古墳時代の住居址も五軒検出された。それらは、調査区域の北東部にかたまって分布していた。おそらく集落跡の西端を調査したことになり、住居址は更に北部及び東部に存在し、台地の肩部に沿って広がっていたものと考えられる。
その他の遺構としては、時期不明(中世以降は確実)の土壙が五基、Dグリットにおいて平行する溝が三本確認されている。

図206 上手遺跡全測図

写真106 古墳時代前期住居址(北側から)

縄文時代の遺構と遺物
J一号住居址(詳細はクリックしてご覧ください)
J一号住居址 全体的に確認がむずかしかった縄文時代の遺構のなかで、いちおう全形を知ることができた唯一の住居址で、時期は中期末である。平面形は、「柄鏡形(えかがみがた)住居址」といわれるように、張り出し部を有するものである。大きさは六・一×四・四メートルで楕円形をしている。中軸線よりも北・西がやや大きく張り出している。床面(ゆかめん)はローム面で良好な状態ではない。
炉は、東壁寄りにあって、床面を二〇センチほど掘りくぼめ、深鉢の上半部を埋置して燃焼が良くなるよう工夫され、炉床には焼土が充満していた。
炉から四五センチ南にある埋甕bは、両耳壺を用いていたが、この土器を据えつけている下部の状態が特筆に値する。まず床面を二〇センチほど掘りくぼめ、床面に深鉢形土器の底部を置く 。その中に黒耀石製の石鏃(せきぞく)と剝片を納め、石皿の破片で蓋(ふた)をしている。これが基部となって、その上に埋甕である両耳壺(りょうじつぼ)が乗っていた。張り出し部の埋甕aは、床面を八五センチほど掘りくぼめ、大形の深鉢二点を合わせて埋置していた。
柱穴と考えられるものは八個あり、住居の壁に沿ってめぐっており、深いもので四〇センチ(P1、P3)、他は二〇センチ前後であった。

図207 J1号住居址及び出土遺物実測図

写真107 J1号住居址全景

写真108 J1号住居址埋甕bの断面

J一号住居址出土の土器 J一号住居址から出土した土器の主要なものは四一点で、図208~212に示した。これらのうち、器形のうかがえるものは三点のみで、他は破片であった。土器の型式は中期末の加曽利EⅢ式を主体とするものであった。

図208 J1号住居址出土土器実測図(1)

図209 J1号住居址出土土器実測図(2)

写真109 J1号住居址炉の断面

図208の1と2は、張り出し部先端から重なって検出されたもので、1が内側に、2が外側に、いわゆる「入(い)れ子(ご)」状となって出土した埋甕である。1は深鉢形で、高さ五五・五センチ、径約五〇センチで、濃い茶色を基調としている。全面にRLの縄文を施し、口縁部には九単位の無文の渦巻き文様を配し、そこから下胴部にかけては、六単位の無文帯を垂下させている。2も深鉢形であるが、1ほど上胴部のくびれが強くない。大きさは1と同じくらいであるが、口縁部と上胴部を欠損している。口縁部はLRの縄文と横の渦巻文、胴部はRLの縄文の中に八単位の楕円文と懸垂(けんすい)文を隆帯によって描いている。
図209の3と4は、いわゆる連結部から重なって出土した埋甕である。3の方は左右に耳がついた、いわゆる両耳壺である。口縁部の三分の二は欠損している。高さ三三センチ、径約二八センチである。胴部にはRLの縄文を全面に施している。4は底部のみで茶色を呈し、よく研磨されている。下胴部ぎわには、沈線による懸垂文の一端が見える。1~4の土器の用途は、出産後の胎襄(たいのう)をおさめた器であろうと考えられている。
5は炉に埋め込まれて使用されていた甕形土器の上半部である。LRの縄文とRLの縄文を施した中に、断面三角形の隆帯による楕円文と懸垂文とを描いている。
図210〜212の6~41は、覆土(住居址内を埋めていた土)中から検出された破片である。6〜12は、断面三角形の隆帯と縄文とからなる一群で、12が胴下部であるほかはロ縁部ないしは上胴部の破片である。13〜32は、縄文の中に沈線で区画した無文・磨り消し帯をもつ一群である。
33~41は、いずれも後期初頭の称名寺(しょうみょうじ)式土器の一群である。文様は、無節の縄文(撚糸を転がしてできる文様)と条線文などである。34は、小さな突起状の波頂口縁の土器で、口唇部が内側に大きく肥厚している。

図210 J1号住居址出土土器拓影図(1)

図211 J1号住居址出土土器拓影図(2)

図212 J1号住居址出土土器拓影図(3)

J一号住居址の石器 J一号住居址で確認された石器は八点であり、図213に示した。1と6~8は、埋甕3と埋甕4の間から出土した。1は安山岩製の石皿の破片で、搔き出し部へ移行するものと思われる。6~8は黒耀(こくよう)石製の石鏃(せきぞく)で、狩猟用の矢先につけて用いられたものであろうが、別の目的に再利用されたものと考えられる。2・3も石皿の破片である。4は敲石(たたきいし)で、敲打面が下端にある。5は磨製石斧(せきふ)の上半部であるが、欠損部面に敲き跡があるところから、敲石として再利用されたことがうかがえる。

図213 J1号住居址出土石器実測図

J二号住居址(詳細はクリックしてご覧ください)
J二号住居址 この住居址は、J一号住居址の南東へ約七メートル離れて検出された。ローム層への掘り込みが浅いため、南側の張り出し部を除いて壁の立ち上がりが不明確であった。また、北側は新しい土壙(どこう)によって切られてもいた。
炉は、張り出し部から北へ約ニメートルのところに検出された。おそらく、ここが住居址の中央と察せられるので、この住居跡は直径約四メートルの円形の浅い竪穴住居址であったろう。柱穴らしきピット(小穴)は六個、南へ偏して検出された。
張り出し部は、そのつけ根部分に一対のピットをもち、またその中央には埋甕aがあった。この埋甕は、土器よりやや大きめに掘られた穴に埋置されたもので、ほとんど直立していた。埋甕はさらにもう一個、東壁近くで検出された。この埋甕bは、両耳壺を単独で埋置したものである。

図214 J2号住居址及び出土遺物実測図

写真110 J2号住居址全景

J二号住居址出土の土器 この住居址から出土した土器は、図215・216に示したものが主要なもので、器形をうかがえるもの三点を含め二六点を数えた。
図215の1は深鉢形をとり、高さ四二センチ、口径三三センチある。比較的小さい底部から砲弾形に立ちあがって開き、口縁部には四単位の小突起がある。文様は磨消し手法により、五単位の短冊形の縄文帯を縦に描出している。この縄文は無節の縄文である。この土器は埋甕aから検出されたものである。2は埋甕bから検出された、いわゆる両耳壺である。高さ三五センチ、口径二二センチと腰高な形をしている。無文帯の口縁は直立し、両下部から下胴部にかけてLRの縄文が施されているが、部分的に縦に磨り消されている。3は炉に埋設されていたくびれのある鉢形土器である。楕円形と剣菱形の文様区画帯を描出し、無文部は良く研磨されている。
図216の4は口縁部に爪形の列点と沈線を有し、5~10は微隆帯によって区画を設けその内部に縄文を施文している。11~15は口縁部文様帯を沈線で区画し、16は口縁部が内湾し波状口縁となる。17~21の文様は、いわゆる磨消し縄文で、磨消し部との境に太い沈線を走らせている。
22~26は縄文後期初頭の称名寺(しょうみょうじ)式に分類され、25・26は細い条線で孤状文が見られる。

図215 J2号住居址出土土器実測図

図216 J2号住居址出土土器拓影図

J二号住居址の石器 この住居址の覆土中から三点の石器が採集された。図217の1・2は石皿の破片である。1は硬質砂岩製で、原石本来の形状を残しているため縁幅が一定していないが、磨り面はよく磨滅し深くなっている。2は多孔質の安山岩製で、利根川水系の岩石である。3は凹石で、長方形の薄手の石の中央に浅い穴を有している。

図217 J2・J3号住居址出土の石器実測図

J三号住居址(詳細はクリックしてご覧ください)
J三号住居址 この住居址はローム層への掘り込みが浅いが、いちおう四・四五×四・二〇メートルの楕円形の竪穴住居址と把握された。炉は南壁寄りにあり四五×五〇センチの円形で、床面を二五センチほど掘りくぼめたものである。炉底は良く焼け、焼土もはっきり認められた。床面は軟弱であった。この住居址の年代は、出土土器から縄文時代後期初頭の称名寺式期と推察される。

図218 J3号住居址実測図

J三号住居址の土器 この住居址から出土した土器は、図219~222の拓本に示した。1・2は加曽利EⅢ式に、3~68は称名寺式に、また69・70は堀之内式にそれぞれ分類される。3~9は微隆帯で区画された内部を縄文でうめており、まだ加曽利EⅣ式などの様相をとどめている。
10や18が称名寺式土器の代正的で、太い沈線を雲形に区画し、その中に縄文を残し、他の部分を磨り消している。31~36には円形の刺突文がみられ、37には「8」の字状の文様がみられる。38~48・50は、沈線区画内をRLの細い縄文を丁寧に施している。
49・51~53も代表的な称名寺式の文様で、太い沈線の区画と大きい列点との組み合わせである。54~59は器面全体に縄文が施文されている一群である。60~65は繊細な沈線で描かれた条線文の一群である。66は胴下部の無文部の破片、67・68は称名寺式の特徴的な底部の破片である。
69・70は、縄文期中葉の堀之内式土器 の破片、71は異形土器の破片であろう。

図219 J3号住居址出土土器拓影図(1)

図220 J3号住居址出土土器拓影図(2)

図221 J3号住居址出土土器拓影図(3)

図222 J3号住居址出土土器拓影図(4)

J三号住居址の石器 図217の4~6が第三号住居址から出土した石器である。4はホルンヘルス(変成した砂岩)製の分銅形石斧で、横から剝がされた石片から製作されている。5は小形の硬質砂岩製の磨製石斧で、両面がよく研磨されている。6は頁岩製の石鐵である。
J四・五号住居址(詳細はクリックしてご覧ください)
J四号・五号住居址 両住居址とも溝1・溝2・土壙5と重複しており、またローム層への掘り込みもほとんどないため、炉跡を確認したにとどまった。J四号住居址の炉は床面を約三〇センチほど掘りくぼめ、そこに大型深鉢の頸部を埋め、火が燃えやすいよう工夫されていた。焼土は、炉底に認められた。いっぽう、J五号住居址の炉は床面を五センチほど掘りくぼめただけの炉であり、底面がよく焼けていた。住居址の年代は、J四号が加曽利EⅢ式期に、J五号が加曽利EⅣ式期に位置づけられている。
J四号住居址の土器 この住居址出土の土器としては、炉に埋められていた土器だけである。図223の下が実測図、上が文様の展開図である。文様は口縁部と胴部に分けて、微隆帯文を上下に連続させて描き、その区画内に縄文を残し、他は磨り消して研磨している。口縁部の方の縄文はRL、胴部の方はLRである。

図223 J4号住居址出土土器実測図

J四号住居址の石器 この住居址で確認された石器は図217の7の一点だけである。硬質砂岩製の打製石斧で、基部を欠失した刃部の破片である。使用による磨耗で両面が光沢を帯びている。この土器は加曽利EⅢ式である。
J五号住居址の土器 この住居址付近から出土した土器は、図224と図225に示したとおりである。1~12は微隆帯文によって、縄文部と無文部とを区画するものである。そのなかでも224の1~9は、微隆帯が直線的に走り、図225の10~12は曲線的に走る。縄文は太いものを使用している。13~16は口縁部に一条の微隆帯を走らせ、その上方を無文部、下方を縄文部と区分している。

図224 J5号住居址出土土器拓影図(1)

図225 J5号住居址出土土器拓影図(2)

17~20は、沈線と磨り消し縄文とで文様が構成されている。21~24は、全面縄文のみを施された土器群である。25は櫛のような口語で波状に条線を描いた土器である。26は称名寺式土器の破片である。27~29は底部の破片で、いずれも縦方向の研磨の跡がみられる。
グリッド出土の土器・石器(詳細はクリックしてご覧ください)
C3グリッドの4・5・8・9区出土の土器 調査区の北部に設けたC3グリッドから出土した土器は、図226~229にその拓本を図示した。大部分が加曽利EⅢ式の土器であるが、49・51は加曽利EⅣ式の土器である。

図226 C3グリット4・5・8・9区出土土器拓影図(1)

図227 C3グリット4・5・8・9区出土土器拓影図(2)

図228 C3グリット4・5・8・9区出土土器拓影図(3)

図229 C3グリット4・5・8・9区出土土器拓影図(4)

D4グリッド9区出土の土器 遺構確認のため精査中、当区から出土した土器は、図230~232にその拓本及び実側図を示した。大部分は称名寺式に分類されるが、図231の2~5は加曽利EⅢ〜N式に分類される。

図230 D4グリット9区出土土器実測図

図231 D4グリット9区出土土器拓影図(1)

図232 D4グリット9区出土土器拓影図(2)

グリッド出土の石器 各グリッドから出土した石器は、図233に実測図を示した。1・2・4はD4グリッド5区、3はE4グリッド7区、5はD4グリッド1区から出土した。1は硬質砂岩製の凹石で、クルミなどを打ちくだくのに用いられたのではないかと考えている。2は硬質砂岩製の敲石(たたきいし)で、自然礫(れき)の下端を敲打面としている。3は硬質砂岩製の小形磨製石斧である。4は大形の磨製石斧の刃部の破片である。5は緑泥片岩製石斧の上半部の破片である。

図233 グリット出土の石器実測図

写真111 縄文時代住居址群
(手前からJ2号、J1号、J3号住居址)


古墳時代の遺構と遺物 上手遺跡の古墳時代の住居址は、調査区の東部にかたまって五軒発掘された。これらは古墳時代前期(四世紀前半ころ)と考えられる。この調査では、集落全体の一部を発掘調査したにすぎず、集落跡の西側の一画に当たるものと推察されている。
H一号住居址(詳細はクリックしてご覧ください)
H一号住居址 形は隅丸長方形を示す竪穴式で、南北五・七五メートル、東西四・三三メートルの規模をもっている。ローム層への掘り込みは二〇センチと浅く、壁溝はない。古墳時代前期の段階では力マドは存在せず(カマドは古墳時代中期以降)、炉が北寄りに存在した。柱穴は四本確認されたが、もう一本存在したと思われるが、南壁にかかって検出された後世の土壙で破壊されたものと考えられる。
H一号住居址の土器 出土遺物は、覆土中から高坏(たかつき)や小型壺の破片など少量検出された。図234の1は、高坏の脚の裾部で径一三センチあり、篦(へら)磨きで赤色塗彩されている。2は、小型壷の口縁部の破片で、口径九・三センチあり、外側はたてに刷毛(はけ)整形され、内側は横に刷毛整形された後、ヨコナデされている。

図234 H1号住居址及び出土土器実測図

H二号住居址(詳細はクリックしてご覧ください)
H二号住居址 この住居址はH 一号住居址の西三メートルに検出された。H一号と同様に長軸を南北にしており、長方形の竪穴であるが、南壁はやや張り出している。大きさは、四・八五×四・三五メートルで、ローム層への掘り込みは、五〇〜五五センチである。柱穴は四本の柱のほぼ中央にあり、皿状に掘りくぼめられた単純炉である。
この住居址には、焼土の塊や炭化材が目立って多く存在した。とくに東壁寄りにまとまっていた。
H二号住居址の土器 土器は、図示した四点が主要なもので、みな床面(ゆかめん)(土間)に密着して出土した。図235の1は台付甕(だいつきかめ)で、口径一一・八、高さ一九・六センチある。胴部は球形を呈し、口縁部は「く」の字状に外反し、接合痕を残し段がみられる。外面は刷毛整形後ナデられ、内面は頸部、脚部ともヨコナデされている。器面には全体的に煤(すす)が付着しているので、炉に置いて煮沸用として便用されたものと考えられる。2は、台付甕の脚部である。
3は、大型壺の胴下部の破片で平底を有する。外面は篦磨きで、赤色塗彩されている。
4は、小型高坏の脚部の破片で赤色塗彩されているが、下部に黒斑がみられる。

写真112 H2号住居址全景

写真113 H2号住居址炭化材と土器

図235 H2号住居址及び出土土器実測図

写真114 H2号住居址土器出土状態

H二号住居址の炭化材の年代測定結果 この住居址の焼土とともに検出された炭化材(細塊)について、埼玉大学堀口萬吉教授を通じて学習院大学木越邦彦教授に依頼して、放射性炭素年代測定を行なったところ、その測定結果はつぎのとおりであった。
                  
  Code №       試料       B. P.年代(1650年よりの年数)
  Gak-7337. Charcoal from Uwade site. 1650±120年前(A.D.300年)

H三号住居址(詳細はクリックしてご覧ください)
H三号住居址 この住居址は発掘されたうち一番南に位置していた。他の住居址と異なり長軸が東西にあり、隅丸長方形の竪穴式である。大きさは五・七〇×四・七四メートルで、ローム層への掘り込みは三〇~三五センチあった。床面は中央部分が良く踏み固められ、壁溝は存在しなかった。住居址のほぼ中央に後世の土壙があり、炉はこの土壙のために破壊されたものと考えられる。
柱穴と思われるピットがー〇本存在したが、主柱穴は南壁寄り三本と北壁寄り三本の計六本であると考えられる。北辺を除いた三辺に炭化材が、壁に直角に検出されたことから、屋根の構造は寄棟造りであり、火災を受けたものと推定される。住居址のほぼ全面に、床面から五センチ浮いた状態で焼土が認められたのは、天井に火棚(ひだな)のように泥天井があったことを物語るのかもしれない。
H三号住居址の遺物 出土遺物は、土師器(はじき)・砥石(といし)・炭化種子で、北壁西寄りに近い部分と、南東隅の二か所とに集中していた。
図236の1は、口縁部を欠く壺で、最大径はほぼ中央にあるが、幾分下ぶくれの感がある。淡褐色を呈し、赤色塗彩はほとんどはげている。2は小型の壺で、口径五・四センチ、高さ一〇・七センチあり、淡黄褐色を呈し、輪積み痕をのこしている。
3は、丸底の土器をのせるための器台であり、口径六・六、高さ七・四センチあり、脚部には三個の孔があけられている。受部は体部中央がわずかに高まるが皿形である。7は台付甕で、口径一六・二、高さ二八・二センチある。胴部の最大径は上部にあるため、高く肩張りの印象を受ける。色は淡黄褐色で、刷毛整形は上部では横に、下部では縦に、そして内側は横に行われている。8も台付甕の胴部下部から下を欠失している。口縁部に指圧痕があるのを特徴とする。口径は二三・二センチあり、内外面とも黒色である。
4・5は砥石で、ともに床面直上から出土し、細粒砂岩の自然石を利用したものである。4は、二〇・七×一〇・五センチの長楕円形をなし、厚さ三・三センチと扁平である。使用面は、表・裏・片側面であるが、表裏とも中心部分がくぼむほどすられている。側面は特に研磨されて、ややえぐれた滑沢面をもつ。5は、割れた扁平の自然石を用いたもので、使用面は一面のみである。これらの砥石は、鎌などの鉄器を砥ぐためのものと推察される。なお定型化した砥石は、関東地方でも古墳時代初頭から出現する。
6は、炭化したモモの種子で、内果皮(核)の残部で、復原すると、三・一×一・六×一・四センチ程度となる。

図236 H3号住居址及び出土遺物実測図

写真115 H3号住居址全景

写真116 H3号住居址南東壁土器出土状態

写真117 H3号住居址土器出土状態

H四号住居址(詳細はクリックしてご覧ください)
H四号住居址 この住居址は一番西寄りから検出され、住居址群では最小規模である。大きさは三・五五×三・三五メートルで、胴張りの隅丸方形をしていた。ローム層への掘り込みは三五~四〇センチで、壁溝はな<、炉は北隅寄りにあった。炉の周辺はよく踏み固められていて堅かった。南隅には一〇〇×六〇センチ、深さ五〇センチのピットがあったが、これは食糧の貯蔵穴と考えられる。床面から五センチ浮いた状態で焼土が検出されており、この住居址も火災にあったものと判断される。
H四号住居址の遺物 この住居址からは、台付甕、高坏が出土した。図237の1の高坏は炉から検IHされた坏下部の破片で、下面に稜(りょう)を有し、赤色塗彩されている。2の台付甕は、東壁際で床面から二センチほど浮いた状態で出土した。口径一〇・八、高さ一四・四センチあり、口縁部の高さ少なく、脚部との接合部が太い。

図237 H4号住居址及び出土土器実測図

H五号住居址(詳細はクリックしてご覧ください)
H五号住居址 この住居址はH二号住居址の南約四メートルに存在していた。発掘された住居址のうち最大で、六・九×五・九二メートルの規模をもつ隅丸長方形の竪穴式である。炉は、中央部からやや北寄りにあり、周辺は良く踏み固められていた。ピットは一〇個あり、そのうち西隅と南隅にあった方形のものは食糧の貯蔵穴、他は柱穴と考えられた。そのうち主柱穴と考えられるものは四本である。住居址の長軸は、H一号、H二号と同方向であり、ローム層へ の掘り込みは五〇センチであるが、壁溝はなかった。東辺を除いた三辺の壁寄りに炭化材が検出され、火災にあったことを物語っている。

図238 H5号住居址実測図

H五号住居址の土器 この住居址で出土した土器は、南東隅から南壁際に集中していた。いずれも床面に密着しており、図239の1はほぼ完形、4と6は壁際に接して、破砕された状態で出土した。1は、口径一四・八、高さ二四・七センチの壺で、口縁は大きく外反し、胴部は下ぶくれする。頸部辺には平行沈線と右上りの列点文が施され、底部は上げ底となっている。2・3も壺の口縁部で、1と同様に頸部辺に平行沈線がある。刷毛整形は斜めに行われ、内外面とも赤色塗彩されている。3の口唇部には刺突文が一周する。
4は、ロ径一二・四、高さ五・四センチの鉢で、平底の底部から内湾気味に立ち上がる。色は淡黄褐色をしている。
5は、口径一五・四、高さ二一 ・二センチの台付甕で、口縁部、胴部、脚部とも釣り合いのとれた形態を示している。胴部から口縁部にかけて煤が付着するいっぼう、底部内面にはオコゲ状の炭化物が付着している。6も台付甕であるが、上部を欠失している。脚部は細めで、接合は挿入式である。煤とオコゲ状の付着は1と同様である。7は、口径約二〇、高さ約二五センチの台付甕である。脚部以外は四分の三を欠失している。脚部に対し、胴部が無格好にふくらんだ器形を示している。整形は、脚部外面がたてに刷毛で、内面は横に刷毛で行われている。胴部外面は右下がりに刷毛で行われ、胴下部はナデられている。口縁部の外面はたてに刷毛で、内面は横に刷毛で行われている。この土器は、H五号住居址を埋めていた覆土中から出土した。
この住居址の土器の時期については、弥生土器の製作技法の伝統を残した古墳時代初期に位置づけられ、7が前野町(まえのまち)式に、他が五領(ごりょう)式期の古い段階に分類されている。

図239 H5号住居址出土土器実測図

写真118 H5号住居址全景

写真119 H5号住居址土器出土状態

グリッド出土の土器(詳細はクリックしてご覧ください)
グリッド出土の土器 調査グリッドから出土した土器については、図240図中に示した。これらも大部分は五領式期の前半に分類されるものであるが、一部にはそれより少し古い前野町式に分類されるものもある。

図240 グリット出土の土器実測図

その他の遺構と遺物(詳細はクリックしてご覧ください)
その他の遺構と遺物 その他の遣構としては、土壙が五基、溝が三基確認されたが、いずれも遺物が検出されず、時期・性格は明らかではなかった。
なお、グリッドから出土した歴史時代の遺物には、図241に示したようなものがあった。1・2は須恵器の坏、3は土師質の坏、4~12は同質の皿(以上、平安時代)、13~16は瓦質の焙烙(ほうろく)(中世、物をいったり、焼いたりする平鍋)である。板碑も二点破片が出土した。一点はキリーク(阿弥陀)の種子(しゅし)が見え、他の一点には「直順」と銘文が見える。

図241 その他の出土遺物実測図


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