北本市史 資料編 原始

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第2章 遺跡の概要

第3節 赤堀川流域の遺跡

提灯木(ちょうちんぎ)山遺跡 (二ッ家三丁目・中丸七丁目)
この遺跡は、北本市二ッ家三丁目他と桶川市大字加納字大加納にまたがる地域に所在する。遺跡の一部については、県道東松山・桶川線の拡幅工事に伴って、昭和六十三年四月一日〜同年七月三十一日、財団法人埼玉県埋蔵文化財調査事業団によって発掘調査が実施された。その面積は、工事予定地域六〇〇〇平方メートルのうち約四〇〇〇平方メートルを発掘対象地とした。
立地と環境
この遺跡は荒川と元荒川のほぼ中間地点、大宮台地の背稜部近くで少し東へゆるやかに傾斜しはじめる場所に立地している。遺跡の北東部には浅い谷が浸入してきており、そことの比高は約二メ—トルある。標高は二一メートルで、この付近では比較的高い。現場はJR高崎線の北東方三〇〇メートルほどで、中山道から東方へ走る道路の拡幅部である。

図259 提灯木山遺跡位置図

調査区は、便宜上北本市側をI区、桶川市側をⅡ区とした。旧石器時代の資料はH区の台地縁辺部のローム層中から出土した。
Ⅱ区の地表面には、直径一六メートル、高さ約二・六メートルの塚があり、塚の周囲は杉林となっていた。塚は江戸時代末期に造られたもので、提灯木山というのはこの塚を中心とした一帯の地域を指す。この名称は古くから使われていたので遺跡名とした。
発掘調査の概要
この調査は道路拡幅部という限られた部分の発掘であったので、遺跡の面としての広がりはとらえきれなかったが、Ⅰ・Ⅱ区とも各時代の遺構や遺物が出土した。
I区 I区は概して遺構の分布がうすく、江戸時代の溝以外はⅡ区寄りに遺構が集中していた。溝のほかには、縄文時代中期(加曽利EⅢ式期)の住居址が二軒、T字形のピット(小穴)一基が検出された。遺物としては加曽利EⅢ式の土器が出土したのをはじめ、一軒の住居址から約二六〇点の黒耀石(こくようせき)とチャート(珪岩または角岩のこと)の小剝片が集中して出土した。
Ⅱ区 Ⅱ区は台地の縁辺部ということもあって各時代の遺構・遺物が見つかった。
塚は黒色土のみで一気に築かれたもので、塚の中心部の真下からは、近世末の陶器が出土している。
塚の下部の旧表土は黒褐色をしており、約四〇~五〇センチ堆積している。縄文時代中期の住居址群は、この旧表土の下の褐色土の上面から検出された。
検出された住居址は五軒でみな加曽利(かそり)EⅢ式の土器を伴う円形また楕円形の竪穴住居である。それぞれの住居址には、後産(のちざん)の胎囊をおさめたとみられる土器(埋甕(うめかめ)という)が埋めこまれていた。遺物も他の時期のものは出土しなかったので、ほとんど同時期につくられたものとみられる。住居址以外の遺構では土壙(どこう)が数基検出された。
褐色土は、Ⅱ区の東寄りの台地肩部を除いて約一五~二〇センチほど堆積しており、住居址の検出地点からやや外れたⅡ区の中央部南寄りの地点では、縄文時代早期の押型文(おしがたもん)土器が褐色土中から十数点出土した。

図260 第2文化層遺物分布図

図261 第3文化層遺物分布図

図262 基本土層図

写真126 遺物出土状態

旧石器時代の遺物は、Ⅱ区の台地縁辺部全体から出土した。それらの大部分は、関東ローム層のⅣ層下部で見つかり、礫群(れきぐん)三か所のほかに石器集中か所が四か所見られ、その他のグリット(方形の調査区のことをいう)からも多少石器が出土した。
礫群というのは、拳大(こぶしだい)くらいの焼けた河原石が数十個群がって出土する遺構で、石焼き肉をした跡ではないかと考えられている。南関東の武蔵野台地などでは多くの調査例があるが、大宮台地ではまれで、しかも大宮台地の北半部では提灯木山遺跡がはじめてである。
石器としては、ナイフ形石器や角錐状石器(かくすいじょうせっき)、スクレイパー、石核、磨(す)り石などがあり、剝岩(はくがん)(石器製作工程で出る石片)も多く出土した。ナイフ形石器とは、切出小刀のような形をした石器で、斜辺の長い部分が鋭い刃となり、基部または背部に刃潰(はつぶ)しの細加工をしたものであって、用途は動物の毛皮を剝がしたり肉を切るのに使ったと考えられている(図263ー1・2)。3は角錐状石器で、槍先のような形をしているが、背稜部が厚く作り出しているのを特徴としている。用途は、孔(あな)あけ用の錐(きり)とも、槍先に装着した飛道具とも考えられている。類似している石器にポイント(尖頭器)があるが、こんなに厚くない。スクレイパ—は搔器(そうき)ともよばれ、骨や皮から肉を搔き取ったり、棒を削ったりする道具として使われたものであろう。石核は石器製作用の剝片を取ったあとの石である。磨り石は、物を磨り潰(つぶ)したり、こすったりするための石器で、周囲が磨滅している。
ナイフ形石器のなかには、横剝ぎによって得た剝片を加工して作られたものもあり、いわゆる「殿山(とのやま)技法」(上尾市畔吉の殿山遺跡で発見された横剝ぎ手法による石器製作法)とよばれている。
Ⅶ層(第二黒色帯)の遺物はⅡ区のほぼ中央部で見つかった。この層の上部ではIV層の石器は全く見つかっておらず、上層のものが潜り込んできたとは考えにくい。遺物は黒耀石製のナイフ形石器や磨り石などが出土した。
この層位からの石器の出土は大宮台地では初めてで、今のところ大宮台地最古の遺跡ということになろう。絶対年代では、およそ二万五〇〇〇年前と推定される。

図263 提灯木山遺跡出土遺物拓影図

 北本市関連の発掘調査報告書一覧
柳田 敏司 「八重塚第一号墳」『ゆうかり』県立浦和第一女子高等学校社会クラブ一九六〇
清水 潤三 「埼玉県北本市出土の古代独木舟」『北本市の埋蔵文化財』北本市教育委員会ー九七二
早川 智明他 「宮岡氷川神在前遺跡発掘調査報告」 同右
横川 好富 「中井1号古墳発掘調査報告」      同右
吉川 國男 「北本市の遺跡と遺物」        同右
塩野 博・駒宮 史朗 「宮岡I遺跡発掘調査概要」『宮岡I遺跡発掘調査概要・北本市所在文書目録』北本市教育委員会一九七三
柿沼 幹夫 『上手遺跡発掘調査報告書』北本市上手遺跡調査会一九八九
浜野 美枝子 「提灯木山遺跡の調査」第二十二回遺跡発掘調査報告会発表要旨 埼玉考古学会他 一九八九

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