北本市史 民俗編 民俗編一覧

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第2章 社会生活と親族

第1節 村のあらまし

3 村と鎮守

北中丸、山中
北中丸は江戸時代には上、下中丸村に分れていた。「風土記稿」によれば鎮守もそれぞれに氷川社を祭っている。現在は一社の氷川社を隣村である山中と合同して祭祀している。
神社の世話人は一〇人いる。北中丸の四つの部落からと山中からそれぞれ二人ずつ出ている。祭りの世話など神社関係の雑用係である。
総代は六〇~七〇歳代の人が勤め、各地区から一人ずつ出ている。
四月十日が氷川神社の祭礼で、七月十四日は合祀されている須賀神社の祭礼である。戦争前までは一七二軒の家があって、悪魔払いといってお獅子と神主と天狗と三人一組になって、全戸を回ったそうである。
中丸のお囃子は有名だった。中丸・山中では長男は必ず笛と太鼓を練習させた。上手になった人はその後も続けた。
山中は鎮守の祭祀は北中丸に吸収されるような格好で行っているが、独自に村内の不動堂の祭礼を盛大に行ってきた。七月二十八日がその日で、堂で百万遍をする。供え物にカッパモチを作り、不動様を拝んで、山中の戸主たちが大数珠を回した。元は堂の回りに墓地を持つ人たちの行事だったという。集まっている子供の中から二人を選んで数珠の中に入れて、鉦を叩かせる。毎年、世話役として年番を決めている。
「風土記稿」に山中の鎮守とある八幡社は今もあるがその近くの家々が祭るのみになっている。
近世村の範囲を氏子とする一鎮守のありかたが当市においても基本的な形であることを確認する事ができた。石戸宿で、かつての鎮守が本宿という一部落のものになっていたが、横田・堀之内・九丁ともに、それぞれそれにかわる神霊を祭っている。これは村が大きくなると、その内部がそれぞれに独立する傾向があるものとして理解する事ができる。
祭祀の形態も、村の地域区分ごとに世話人・総代などの役を選出する形であり、標準的である。
ただし、これらの形も今後新しい移住者がもっと増えていくであろう当市においては、変わっていかざるを得ない事であろう。

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