北本市史 民俗編 民俗編一覧

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第2章 社会生活と親族

第3節 村の運営

1 近世村と区、部落

前節までに、中央集権的な行政の力が及ぶ以前の民俗社会として、近隣組、村内の地域区分、近世村があり、現在でも何らかの形で残存し、機能していることを見てきた。この節では、そのような民俗社会がどのように運営されているか、つまり民俗社会の政治について述べることになる。ただし、近隣組は組織として小規模であるし、村内地域区分は伝統的儀礼の遂行を主としており、政治的な側面は少ない。したがって、民俗社会の運営については近世村のレベルにおいて展開されている。
明治以降、政府は中央集権的な国家体制を造り上げるために、地方政策においては、近世村を外側から利用、変形、解体するやり方をとってきた。現在の行政区分とは別の形で民俗学が対象とする近世村が残存し、程度の差はあれ現在においても機能しているとしても、それは特に明治以降において顕著になったこの国家権力の影響を強く受けながらのものであることを念頭に置かなければならない。そこで、本論に入る前に明治以降の中央政府の地方政策の概略について述べておく必要がある。
第二次世界大戦以前の中央政府の地方政策が一応の完成を見るのは、明治二十一年(一八八八)の市制・町村制の制定である(実施は翌年四月)。この時の規定で近世村のありかたに多大な影響を与えたのは次の部分である。「町村区域広潤ナルトキ又ハ人口稠密ナルトキハ、処務便宜ノ為メ町村会ノ議決ニ依り之ヲ数区二分チ、毎区区長及其代理者各一名ヲ置クコトヲ得。区長及其代理老ハ名誉職トス」。これ以前に新しい行政村は従来の近世村をいくつか統合する形でつくられていたため、多くの町村では近世村ごとに区を置いた。この制度は戦後、地方自治法が施行される昭和二十二年(一九四七)まで公的な形で存在し続ける。現在でも「区」「区長」という名称を使用している地方は多く、近世村と多くの場合、重なっている。いま一つ、「部落」という名称に関連して重要なのは昭和十五年(一九四〇)の内務大臣訓令「部落会・町内会・隣保班等整備要領」である。ここには「市町村の区域を分け村落には部落会、市街地には町内会を組織すること」とあり、これで部落は全国に広まった。安易に部落=近世村と断定してはならないが、区を部落とした所、大字を部落とした所は少なくなく、何らかの形で近世村に原型を求めることができる所が全国的には多い。しかし、北本市域においては後述する荒井の荒久保地区を「部落」と呼ぶように近世村内の地域区分を「部落」と呼ぶ例も多くみられる。なお、隣保班を基本単位とするこの昭和十五年の制度は、戦後の自治会の基本単位(北本市域では班)の原型となっている場合がよくみられる。
さて、北本市域において「ムラ」「クルワ(宮内)」以外に、自分達の村落を呼ぶのに使用されている名称も「区」と「部落」であり、ほぼ全市域に「区長」がいる。しかし、現在の北本市の自治会組織においても班の連合体を「区」と呼び、「区長」も置かれているため、区が民俗社会の母体となる村落を意味するのか、「自治」会という名の行政の末端の組織を指すものなのかが分かりにくくなっている。さらに、たとえば宮内では自治会の「一〇区」「一一区」などを「一〇部落」「一一部落」などと呼ぶなど「区」と「部落」の記憶が交錯している所もある。荒井の荒久保地区は自治組織としては西一三区となっているが、荒久保と呼ぶ時は「部落で呼ぶ」といい、西一三区と呼ぶときは「地区で呼ぶ」という。さらに、「地区で呼ぶ」ときは「市役所関係のとき」で「部落で呼ぶ」ときは「元からいる人にだけ関係ある農協関係のとき」であるという。また、東間では昭和三十七、八年頃に「部落長」を「区長」と言い代えている。市域では民俗社会の母体を示す言葉としては、特に戦後の行政的な措置によって新しい市民をも包括してつくられた自治体と区別して使う場合、「ムラ」「クルワ」のほかに「区」よりは「部落」が使われる傾向がある。このことは、今回の聞き書き調査において再現出来る時間的深度が大正時代から昭和初期にかけて、つまり「部落」が行政の単位として登場した時期であることとも関連があるものと思われる。

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