北本市史 民俗編 民俗編一覧

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第2章 社会生活と親族

第4節 村の中の諸集団

2 若い衆と囃子連

かつての村々には男子青年層の集団があった。それを一般的には若者組と呼ぶ。関東地方では「若い衆」といい、青年・壮年の男了で構成する所が多かった。北本市内も、村々にその組織があった。
たとえば、北中丸では、若い衆には尋常高等小学校を卒業して加入した。仲間入りは四月十日の村氏神の氷川神社の春祭りの時だった。加入する者はお金を少し包んで、年番の世話人から先輩諸氏に紹介して貰う。これが地区の仲間入りと、北中丸への仲間入りにもなった。以後は村の一員として認められるのである。北中丸の若い衆には「世話人」と称する統率者があったが、それには財産家の特定の二軒の家の者がいつもなっていたという。
また、北中丸では隣村の山中と一緒に石尊講を行っている。石尊謎で集まったお賽銭は若い衆のものとなったそうである。
若い衆には一軒から一人が加入するのであって、代りの者が入るまでその家の主人はたとえ何歳になっても入っている。一軒一人が原則である。
下石戸下でも、若い衆には尋常高等小学校を卒業して加入した。お囃子、踊りなどを行なった。三〇歳くらいまで入っているという。
この若い衆が村社会の中で担っていた働きは、主として祭礼の場合に表われていた。
東間では、若い衆は十八歳から四十歳までといい、祭礼の時、余興の世話などをしていた。
また、北中丸では、村氏神の氷川神社の祭礼の費用を集める仕事が若い衆の仕事であった。若い衆の頭と神社総代が一名ずつ出て、その費用を集める相談をする。春祭、秋祭の時に二回に分けて若い衆と世話人で集める。その他にも祭礼に当ってはこまごまとした用事がたくさんあるが、若い衆と、北中丸の中の四地区が年ごとに受持つ「年番」とで処理するのである。
北中丸の氷川神社は北中丸だけではなく、山中も一緒に祭る。四月十日が氷川神社の祭礼で、七月十四日は合祀されている須賀神社の祭礼である。翌十五日は朝の七時から当番のクルワが神輿を担ぐ。戦争前までは一七二軒の家があって、悪魔払いといって、お獅子と神主と天狗と三人一組になって、全戸を回った。この案内役をサシバンといい、若い衆が勤めたという。しかし今は、獅子も神輿も飾っておくだけになった。
東間の村氏神は浅間神社で、富士塚の上にある。六月三十日が宵祭り、翌七月一日が本祭り。その年生まれた赤ん坊はハツヤマと称しておまいりに来る。お札と、御守り、うちわを配る。神社の総代は十名いる。また若い衆世話人が芝居や、花火の余興を受け持った。
市内のいくつかの村には祭囃子を行う組があった。それを「囃子連」とか「太鼓連」と称する。これは若い衆と年齢的にも同じ層から構成されていた。
北中丸のお囃子は有名だそうだ。昔は北中丸、山中では長男は必ず笛と太鼓を練習させた。何年かごとに新人を入れて練習した。練習には自分たちの家を使って、一冬練習して仕上げた。北中丸では、若い衆は村の中の集落ごとの組織だが、囃子連は全体で一つの組織であった。今は勤め人が多くてその人数が減ったという。
荒井では太鼓連という。昔は小学校を卒業すると加入した。息子が加入すると父親は抜ける。荒井の各地区にお囃子の世話人がいて、太鼓連の運営委員をしている。村氏神の須賀神社の祭りの折や、鴻巣の祭りに出掛けて太鼓をたたいた。昭和初期には太鼓がはたけてもはたけなくても五十人位の仲間があったという。仲間入りは天王講のときで、太鼓連に酒を出して挨拶する。今は小学校の生徒が習っている。
この太鼓連の酒、食事の用意は男だけでやった。てんぷら、てうちうどんなどをつくった。婿に対しては、昔は付き合いに差があったそうである。祭りが終わって、勘定の日、世話人は決算をし、一般人は後かたづけをしたが、その時の下仕事は婿の仕事だったという。
これらの例から考えると、若い衆と囃子連とは元々は同じ組織であったのだろう。関東地方の若い衆は村の神社祭祀に強く関与するものであるが、この特徴は市内でもうかがわれるのである。

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