北本市史 民俗編 民俗編一覧

全般 >> 北本市史 >> 民俗編 >> 民俗編一覧

第2章 社会生活と親族

第5節 家と家族

4 分家

生家の継承は長男が行うものとされているので、二、三男以下並びに女子は生家から出ていかなければならない。女子の場合は他家への婚出という形をとり、男子の場合結婚し新たな家を創設(分家)することが一般的である。
分家する場合、何等かの財産を生家から充てがわれることが多い。ただ、これは各家の経済状態に左右される。理想的には耕地、宅地、家屋などを多少なりとも分け与えるものとされている。すなわち、ある程度の財産分与が分家の条件となっているのである。そのため、何等かの財産分与を受けずに独立した場合、生家との関係において後に述ベるような本—分家関係は成立しないこともある。
分家を出す一般的な事例を農家についてみてみると、生家付近の土地を分与されて家を創設していくのが多い。すなわち、生家の近辺に分家が創設されていくのである。ただこの場合、生家(本家)の前、あるいは西に分家を建てると生家が没落するなどといって家の建設には注意が払われている。そして、家の創設には生家の姓を名乗るものとされている。ところで、ある程度の土地もちならば耕地のいくらかでも分与できるが、たいていは家屋の提供が精一杯というところである。こうした家屋の提供のみによる分家を特にイモチブンケ(家持ち分家)とよんでいる。人によっては家屋、耕地すべてをつけて、はじめて「分家を出す」という言い方ができるとしている。
分家した後、分家した側は生家に対しオモテンチなどと呼び、一方生家からは分家のことをシンタクなどとよぶようになる(しかし、今日ではホンケ-ブンケという言い方の方がよく使われている)。先にも述べたように分家とは、生家からの財産分与による家の創設を指して言う傾向が強い。このため、分家に対する本家の力は強く、分家は本家のために生業など様々な面で助力していくものとされている。往時はこうした関係に対してオモテンチ—シンタクという言葉が当てられていたようである。というのも、財産分与なく家を創設した場合、生家との関係においてオモテンチ-シンタクの呼び方はしないのである。そして生家に対する助力も義務づけられてはいない。そうしたことは、生家に分与するほどの財力のない家にみられ、二、三男以下は奉公にでたり、あるいは生家の生業にはつかず、勤め人となったりして、独立していく例が多くみられる。
ところで、ブンケという場合これまで述べてきたような二、三男以下の別家という場合についていうことが多いが、家長権を長男に委讓した親夫婦が分家して家を離れるという事例もみられる。インキョブンケ(隠居分家)とよばれるものがそれである。これには主として二つの事情がみうけられる。
ひとつは、親夫婦の再婚にかかわる場合である。例えば家長が後妻を迎えた場合、先妻との間に生まれた長男を跡取りとして家に残し、本人は後妻とその間に生まれた子供とともに分家していくものである。
もうひとつは、長男との折り合いが悪い場合である。長男との同居を望まない親夫婦は、長男を家に残し、二、三男とともに家を出ていく。この場合、親は家の大半の財産をもって分出していく。人によってはこれを、「分家とはいうものの、実際分家するのは長男である」と表現する。すなわち、長男を分出させることはできないので、形は親が分家するが、その実は家屋といくらかの耕地.を長男に残す分家待遇にするのである。そのため、本来の本—分家関係の点からいえば、長男が継承した家が本家の格式を有するべきものであるが、後述するイッケのつきあいをみると本家としての待遇を受ける方は、むしろ隠居分家した側であったりする。
いずれにせよ、相続・継承は長子相続が基本であることにはかわりない。
以上、血縁関係者の間に行われる分家について述べてきたが、分家には非血縁者に対する例もみられる。ホウコウニンブンケ(奉公人分家)とよばれるものがそれにあたろう。奉公人分家とは、奉公人に苗字と財産を分与して分家させるものである。これはどの家でも行うというのではなく、それぞれの家の事情によってなされる。農家の場合、奉公人の労をねぎらう意味で耕地を分け与え独立させる形をとる。これによって分家・独立した奉公人は、奉公先の家を本家としたイッケの中に組み込まれることになる。ただし、同じ分家ではあっても奉公人分家は、血縁者による分家に比べるとその待遇は一段低いものとなっている。たとえば、イッケの集りの場では、奉公人分家は下座に位置するものとされている。

<< 前のページに戻る