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第3章 農業と川漁

第1節 畑と畑作物

3 畑作の過程

(二)陸  稲
オカボ(オカブともいう)の作付は、現在は大半が糯種(もちしゅ)となっているが、畑を田にした陸田がないころはタゴメが少なかったので粳種(うるちしゅ)を多く作った。タゴメというのは水田の米という意味であり、陸稲の糯のことをオカモチとかオカブモチと呼んでいる。
粳を作った時代には、センショウとかタマサリなどの品種があったが、いずれもタゴメより味も質も悪く、センショウはとくに粘り気がなくて炊いてもボロボロした米だった。タマサリはタゴメより優った米という意味から名付けられており、これはセンショウに比べると味はよかった。糯では美濃糯などがあったという。
オカボの作付は大麦のサクの間に行われるのが一般的だった。サクイレといい、大麦の三番ギリ(トメサク)が終ると四月下旬から五月上旬に蒔く。鍬で麦のサクの間にウネヒキをし、ここに種子を蒔いていく。ウネを切るのは麦のサクを一サク跨(また)いて行うので、穂が出る前にウネヒキをしておくことが多かったという。
種子は一反当たり四升見当で、水稲とは違って水に漬けずに使う。ただ、終戦後にはケラという害虫予防のために薬剤を種子にかけて蒔くこともあった。オカボは芽が出かかったところをケラになめられ(喰われ)、だめになってしまうことがあったからである。こうしたところはキレドといってサクに作物がないわけで、後でアワや大根を蒔いたという。
種蒔きの方法は、普通はネゴエといって元肥をサクに入れ、その上に種子を一升桝などに入れて持って捻(ひね)った。ネゴエに使う肥料は、現在の古老の世代では過燐酸、硫安などがあり、これらと豆粕を配合して使った。肥料の配合は各自行うが、たとえば高尾では組ごとに一人ずつスコップを持って出て配合し、一〇貫目ずつ袋に詰めたといい、一時は共同作業で行ったところもある。
しかし、種蒔きはこの方法ばかりでなく、麦と同じように種子と肥料を混ぜて蒔くことも行われた。種籾とツクテ(ダゴイ)、灰を混ぜ合わせてサクに条播する方法で、これは手のない家でしたとか、あるいは逆に熱心な人が行ったといわれている。すでにどのような場合に行ったか不確かなのだが、この方法では種籾と肥料の混ぜ合わせを十分にしなければならないという。
ツクテを切り出して積み、上に灰と種籾をのせて鍬やスコップで外へかんますように広げ、さらに反対に内側に混ぜ込むと平均に混じり、これをテゴに入れて天秤棒で担ぐか、カマスに入れて牛車で畑に運んだ。蒔くには一斗五升のザルを使い、肩から縄で支え持って手でつかんでサクに入れていく。
種蒔きをして一カ月もすると麦刈りが済むので、この後にはカブヌキをした。麦の刈株をサクグワで切り起こす仕事で、高尾では祇園までに終ればよいとされていた。六月中旬から七月中旬に行うが、これは雨の少ない七月末以降になると、麦株の根と一緒にオカボの根も傷めて弱めるからだという。カブヌキの時には過燐酸や硫安、豆粕を配合したもの、あるいは下肥を追肥として施す。その後、しばらくしてからマンノウで起こした麦株を崩し、土をかぶせてしまう。
オカボを作って困るのは、夏に雨が少ないことである。干魅(かんばつ)に弱い作物で、お湿りが多い年にはよく取れるが、雨がなくしかも風でも吹くと立ち枯れしてシラッポになってしまった。また、夏作なので雑草がたくさん出て、この手間も大変だった。手で草取りをしたり、サクの間を鍬でさくったりするが、これは手が回れば何度でも行ったし、家によっては作の少ない人を手間仕事に雇って行った。
収穫は十月中旬で、草刈鎌で刈り取り、二、三日間畑に並べて干してから束ねて家に運んだ。脱穀は昔はコキ(千歯)を使い、クルリ棒で打って折れた穂をこなすとともに芒(おぎ)を落とし、フルイや唐箕で選別した。
オカボの収穫量は前述のように天候に大きく左右されてあてにならず、一反当たり四俵(一俵は四斗)取れれば最高のできだったといわれている。

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