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第3章 農業と川漁

第1節 畑と畑作物

1 畑と山起こし

(二) 山起こし
山起こしというのは、山林を切り開いて畑に開墾することで、少なくとも昭和初期までは盛んだったし、戦中・戦後の食糧難の時代にも行われた。前述のように開墾畑が多い所では十二月から三月にかけて砂ぼこりがひどく、強い風が吹くと先が見えないほどになったとか、戸締りをしていても家の中まで泥が入り、夕方仕事から帰ってくるとまず掃除をしないと食事もできないほどだったなどといわれている。風が通って砂ぼこりがひどい畑では、作物も傷むので畑の周りに桑やお茶の木を植え、少しでも風害がないようにとの工夫も行われた。
明治期の地図を見ると(図6参照)、中山道・JR高崎線に沿った地域には葬樹林(そうじゅりん)(雑木林)や松林が多く、こうした山林を開墾した畑はとくに軽質土壌だったといわれている。地区ごとにいくつかあげると、たとえば深井では現在のバイパスから中山道の間に深井山という大きな山林があり、戦争中には食糧増産のための山起こしを盛んに行った。下石戸下の南小学校付近はデエッパラ(台原)といって大きな山林で、ここでも山起こしをした。また、荒井の八重塚山には畑が三〇町歩ほどあるが、このうち三割くらいは山林を開いた畑である。下石戸にはオケヤッパラという山林があり、もとは昼間でも薄暗く追いはぎが出るといった所だったが、今は山起こしをして大半が畑になっている。現在の高崎線の西側には、山中山という馬室(鴻巣市)の方まで続く雑木林があったが、大半を畑に起こしたのでかっての面影はなくなっているなど、市内には元は山林だったが山起こしを行ったと伝える場所が随所にある。

写真1 山起こしの畑(石戸宿)

山起こしは自家の山あるいは山主から山を借りて行った。山を借りて行うのは畑の少ない人で、起こした所を小作した。ただし、自分で山起こしをすると年貢(小作料)は三年ほどはただで、四年目から納めるようになったという。実際に山を起こすのは冬の仕事で、畑にしようと思う場所の木を伐り、クロクワという大きな鍬(図2参照)とトウグワで根を起こして畑にした。
ナラやクヌギが生えている山をナラ山、クヌギ山あるいは薪山といい、ここで伐った木は薪にした。薪を作るのは自分が行うのでなく、材木屋が買って山師が一尺五寸の長さに切り、一把三貫五〇〇匁から四貫目の大きさに縄で束ねて出したり、山師が木を買い取って薪に作り、鴻巣の薪炭屋にもっていって油と交換したなどという。山を借りて山起こしをする場合は、こうした薪の代金は山主のものだった。
山ではクズ(落葉)も取れたので、山搔きをしてクズをとり、この後に山起こしとなるのである。また、木を伐った後の切株は、笠原や常光(鴻巣市)といった水田地帯の人が一株いくらで買うこともあった。水田地帯では薪(まき)がとれないので、こうして木の根を買い取って掘り起こし、荷車で引いて帰り、薪にした。松林での山起こしでは、木の根がよい燃料となり、掘り起こしてから細かく刻んでヒデとした。山の木は山主のものでも、切株は起こす人の所有で、他の人に売ったり、自分で掘り起こすかしかなかったのである。
クロクワやトウグワで起こした山は、木の細かい根を取って整地すると畑になった。数軒の家が共同で起こすこともあったし、一軒だけで行う場合もあった。一軒で起こす時は、いっぺんにたくさんはできないので、年に二、三畝ずつ起こしたという。こうして起こした畑は、土は軽いが長い間に落葉などが土の中にたまり、比較的肥えていた。春先までに起こすので、たいてい最初はオカボを作り、その後に小麦を作った。新しい地(作物を作ってない地)なので、オカボは反当たり六俵も取れる所があった。ただし、こうした場所はめったになく、肥えた新しい地といってもオカボは普通の畑の半分くらいしか取れなかったともいわれている。麦は軽い土質の所では、大麦はできが悪いので小麦を作るのだという。山起こしで開いた畑でなんとか作物が取れたのは二~三年で、この後は普通の畑と同じように肥料を入れないと収穫は望めなかったようである。


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