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第3章 農業と川漁

第2節 水田と稲作

1 水田と水利

水 田
戦後になって陸田が開かれるまで、水田は荒川東岸の台地下の低地、赤堀川沿岸の低地、それと台地の谷あいの谷津(やつ)にあるだけだった。こうした水田は畑に水を溜めるようにして造った陸田に対してホンデン(本田)と呼ばれている。
台地下の水田、谷津の水田はいずれも台地から絞れ出る湧水があり、ほぼ年間を通して乾くことのない湿田だった。一部には地が堅く、田に入っても深くもぐってしまうことがない場所もあったが、全体としてみればドブッ田と呼ぶ深い田が多かった。とくに深い場所は股まで、あるいは腰までも入ってしまうこともあり、そこでの農作業は難渋をきわめたのである。
現在では想像さえできなくなっているが、深いドブッ田には、ワタリとかワタリギ(渡り木)、イカダ(筏)といって、田の中に松のゴロタ(丸太)や竹を入れておき、作業時にはこれを足で探りながら歩いたのである。松丸太は木に脂(やに)があって、年中水があるところに潰けておいても腐りにくかった。農作業をして野良着が泥にまみれることは当然だが、やっこく(軟らかく)深いドブッ田で仕事をするときには、わざわざ着替えを持っていくほどだったという人もいる。単に泥にまみれるだけでなく、田の中から湧き出る水は冷たく、田からあがる時には着替えずにはいられなかったことが窺(うかが)えよう。
ドブッ田での稲刈りには、足が深くもぐってしまわないようにカンジキと呼ぶ田下駄を履いたり、ソリと呼ぶ田舟や籠などを持って入り、この上に刈った稲をのせて束ねた。たわわに穂をつけた稲は、少々水に濡れても構わなかったが、泥がつくと米が汚れてしまうからである。すべての水田がこうした状況ではないにしても、明治末・大正初めに生まれ、この土地で生活してきた古老の体験のなかでは、ドブッ田での農作業が一段と強く記憶されているのである。
また、こうした状況にくわえ、耕地整理などの土地改良事業が進むまでの水田は、大きさや形がまちまちであった。一畝、三畝あるいは四畝、五畝といった具合いで、四~五畝あれば大きい方だったといわれている。地形に合わせて開かれた田であるため、田のクロ (畔)はまっすぐでなく、曲がっているのが普通だったし、自分の田に行くには他家の田を何枚も通らなければならないところが多かった。刈り取って束ねた稲を連び出すには、何把もの稲束を背負って畔を歩き、荷車やリヤカーが置いてある道まで運んだのである。
各地区の水田状況を明治期の資料でみていくと表3のようになる。明治八年の『武蔵国郡村誌』では、現在の北本市域の水田は一四一町九反八畝二四歩で、耕地(水田・畑)全体の一三.四%にすぎない。明治十七年に測量された地図(明治二十年刊)で水田をみていくと、図6のようになる。黒く塗りつぶしたのが水田で、荒川東岸、赤堀川沿岸と台地のなかの谷あいにあるのがよくわかる。

図6 明治中期の水田(黒塗部が水田)

荒川東岸では台地下に南北に水田が続き、現鴻巣市との境付近には鈎の手状に谷があって水田となっている。高尾の北袋で、愛宕下の田と呼ばれているところである。このように谷あいにある水田は、谷津田とか間(あい)の田とかいわれている。愛宕下の田の南には宮岡に前谷津と呼ばれている大きな谷津田があり、さらにその南には桜堤(一夜堤)から東に二股に谷津田がある。ここは諏訪山と呼ばれる八重塚を馬蹄型に取り囲む谷で、北側の谷津は高尾の阿観堂の下まで続き、オイケ(小池)の谷津田などといわれている。南側の谷津は石戸宿の堀の内の東光寺下まで続き、八重塚耕地という。いずれの谷津もドブッ田で、前述のように渡り木が入っている所もあった。八重塚耕地は城中堀という堀があった所だともいわれている。桜堤の南の石戸宿からさらに南にさがった下宿にも小さな谷津田がある。周りは畑であるが、現在は附歩(つけぶ)耕地と続いた水田となっている。
下石戸上、下石戸下には南北に連なる大きな谷津田がある。江川が流れている谷で、途中の何ヵ所かに東あるいは西方向へ伸びる谷もある。北端の二股になった谷のうち、西の谷津田は雑色(ぞうしき)耕地と呼ばれ、西小学校北の高尾の谷足まで続いている。谷足付近もドブッ田で渡り木が入っている所があったという。東の谷津田は馬込耕地と呼ばれ、現在は面影がなくなっているが、解脱会の西側を経て北本中学の東付近に続く水田だった。馬込耕地へは本宿(北本宿)の人や小松原(鴻巣市原馬室)の人も耕作に来ていたといわれている。
中山道の東の北中丸にも馬蹄型に二股に分かれた谷がある。北中丸ではこれを東の田、西の田と呼び、東の田の北側には五反田と呼んでいる水田が続くようにある。東の田、五反田、西の田で五〇町歩程で、東の田は比較的浅くて牛馬を使うことができた。しかし、西の田や五反田にはドブッ田で深い田もあったという。
宮内、中山、常光別所、花ノ木の東には、赤堀川沿いに広い水田地帯がある。鴻巣市から北本市を経て桶川市へと続いている水田で、常光別所などではここを鯉沼耕地と呼んでいる。川のごく脇は堅い田で牛馬が入れたが、それ以外はドブッ田が多く、深くもぐってしまう所もあったという。この耕地は、かつて鯉沼という沼があった所だともいわれている。
以上、地図と古老からの聞き取りをもとにして述べてきた水田状況は、江戸時代末から昭和初期まで大きく変わることなく続いていたと考えられよう。こうした状況が大きく変わっていくのは、昭和初期に荒川の河川改修が行われて河川敷が水田に開かれたり、戦後になって耕地整理が行われたり、盛んに陸田(りくでん)が開かれてからである。

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