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第3章 農業と川漁

第2節 水田と稲作

2 稲作の変遷

摘み田と植え田
北本市内で行われていた伝統的な稲作法には、ツミタ(摘み田)とかマキタ(蒔き田)と呼ばれる直播(じきは)法とウエタ(植え田)といわれる移植法(田植法)の二種がある。直播法は種籾を灰などの肥料と混ぜ合わせ、直接水田に摘み蒔く (点播)方法である。現在では、稲作法といえば田植えをして稲を作る植え田が一般的だし、常識となっている。
しかし、市内で見るかぎり昭和初期ころまでは摘み田(蒔き田)の方が広く行われていたし、直蒔きで稲を作るのが常識と考えられていた時代の方が長い。摘み田は、大正二年『日本主要農作物耕種要綱』(農商務省農務局編、大日本農会刊)の埼玉県には、「北足立郡ノ湿田ニ於テハ直播ヲ行フトコロ少ナカラス」「北足立郡地方ニ於テハ一段歩当七、八升ノ割ヲ以テ直播ス」などとあり、当時、旧足立郡では盛んだったことが窺える。また、各地の資料からは、大宮市・浦和市など大宮台地周辺の地域や武蔵野台地や入間台地周辺の地域でも広く行われていたのがわかっており、けっして特殊な稲作法ではなかった。ただし、埼玉県全域で一般的であったわけでなく、摘み田はノガタ(野方)と呼ばれる地域での稲作法である。北本市もその立地は、大宮台地の北端にあり、野方地帯ということができる。
市内では一部には昭和三十年代まで摘み田を行ったというところもあるが、大半は昭和初期に植え田へ変わっている。戦後になって陸田が盛んにひらかれるまでの水田の所在は、基本的には前述したように明治八年の『武蔵国郡村誌』の記載と変わらなかったと考えられる。つまり、一三ヵ村のうち、旧北本宿村、東間村の二ヵ村には水田はなかった。他の一一ヵ村では、多い少ないはあったが水田耕作が行われ、旧深井村を除く一〇ヵ村では摘み田を行っていたという。
いくつかの地区の状況を述べていくと、たとえば、高尾では摘み田を蒔き田ともいい、昭和初期まで行い、この当時までは摘み田でないと米はとれないと思っていた人さえあったという。谷津田で田に入ると足が深くもぐってしまようなドブッ田で行い、サヌキヤ・前谷津・北袋の愛宕下などでしていた。ただし、昭和初期には植え田への転換がかなり進み、全体としては植え田の方が多かったようで、下沼の東側は昔から植え田だったという。摘み田の収量は一反当たり四斗俵で六俵くらいは取れたが、米の味は摘み田をするような田の米は、荒川べりの砂混じりの田の米に比べるとまずかったといわれている。労力的には植え田だと田植え時期が養蚕や大小麦の取り入れと重なり、摘み田の方が都合よかった。しかし、田の代ごしらえは、植え田は摘み田より簡単でよく、その手間で次第に植え田に変わったとのことである。
荒井では荒川べりのシタノヤは植え田だったが、サヌキヤは昔の荒川の河敷で、掘ると草炭がたくさん出るドブッ田で摘み田を行い、試験場下の八重塚耕地七町歩や小池耕地は以前はすべて摘み田だったという。摘み田は全体的には昭和初期ころまでだったようだが、八重塚耕地では昭和二十五~六年ころまで摘み田をした人もあった。植え田へ変わったのは、摘み田は雑草がひどく田の草取りに大きな手間がかかったからで、植え田になる時には農会の技師などの指導を受けたりしたといわれている。摘み田の収量は反当たり四俵から四俵半だったが、植え田になってからは八俵くらい取れるようになり、植え田にして 三年目にヤシマ千本という品種を作ってセダラ(一畝一俵)に取ったという人もある。
石戸宿では戦前・戦中まで摘み田を行ったようである。堀の内では、水田は石戸宿・上宿との境の谷にあるだけで、山から地下水がしみ出て湿田となっており、摘み田で作っていた。当時は田に入ると腿のあたりまでもぐってしまい、とくに深い所には松丸太を渡り木として入れて仕事をしていた。ところが戦後になって地下水位が下がり、湧水がなくなって植え田に変わったという。また、本宿では戦前には摘み田と植え田が半々といったところで、摘み田はあまり深くない田で行ったという。一夜堤周辺の水田はドブッ田で、摘み田だと蒔いた種籾が土の中にもぐってしまうので苗代で長い苗を作って植え田をしたともいわれている。
下石戸下では江川の沿岸に松山街道まで続く雜色耕地と馬込耕地と呼ぶ水田があり、いずれも膝上くらいもぐってしまう湿田だった。稲作は昭和三十年代半ばころまですべて摘み田で、その後植え田に変わったという。摘み田の方が仕事が楽だといってしていたが、ちょうど油紙をかぶせて作る岡苗代がはやった時で、農協の指導員が回ってきてこれで植え田をすると手間が省け、収穫も増えるというので変わった。しかし、植え田になっても収穫量は変わらなかったという。なお、植え田になるのは荒井・高尾・石戸宿の方が早く、植え田に変わるときにはこれらの地区の親戚などに手伝いに来て貰ったともいわれている。
宮内では昭和十五年ころまで摘み田をしており、その後植え田に変わったという。谷の奥の間(あい)の田で排水がきかず湿田だったので摘み田をしていたが、摘み田は田の草取りなどに大変な手間がかかった。当時は戦争も始まって男手が少なくなり、植え田になっていったという。収穫量については、摘み田も植え田も大差はなかったとのことである。
常光別所(現・朝日一丁目~四丁目)では、赤堀川のすぐ脇は堅い田で牛馬が入って植え田をしていたが、これ以外はほとんどドブッ田で、すべて摘み田をしていたという。ドブッ田のなかでも、深いところはシキ(底)なしで股まで入ってしまい、このような田ではゴロタ(丸太)や笹の葉を入れ、この上を歩きながら田摘みなどをした。堅い田をもつ家はわずかで、多くの家が摘み田ばかりだったが、赤堀川の東の常光分(鴻巣市)は昔から植え田をしており、ここへの出耕作では植え田だった。赤堀川西岸の水田は一口に鯉沼耕地と呼ばれ、常光別所の他に花ノ木、加納(桶川市)で三〇町歩余を作り、摘み田は昭和三十年代に暗渠排水の工事をするまで続けられていた。摘み田の時代の収穫量は、一反当たり二石から二石五斗(五俵から六俵一斗)で、六俵取れれば豊作だったという。暗渠(あんきょ)排水を行い、植え田になったときには一反に三〇〇~四〇〇貫の堆肥を入れ、苗を一株に二~三本ずつ植えて反当たり八俵の収穫があったとのことである。常光別所では摘み田を蒔き田ともいった。
北中丸では集落の東西に東の田、西の田と呼ばれる耕地があるが、ここでは昭和二十年代の半ばに耕地整理などの土地改良を行うまで摘み田をしていた。土地改良をして水の便がよくなって次第に植え田になった。なかには動力耕うん機が普及するまで摘み田を続けた人もあり、植え田は初めに里(水田地帯のこと)から嫁にきた人に植えてもらって覚えたなどといわれている。なお、摘み田の当時も田摘み(種蒔きのこと)をして芽の出ない株があると、大きい株の苗を分けて植えるのが面倒なので、里の方にいって少し苗を譲り受けて植えたりもしたという。摘み田から植え田への転換理由には、土地改良だけでなく、田摘み後の除草や株揃えの手間が大変だったこともあげられている。摘み田当時、つまり土地改良以前の収穫量は一反当たり一石五斗から二石くらいで、五俵(二石)とれれば豊作だったという。
いくつかの地区の摘み田の状況や摘み田から植え田への変化をあげると以上のようになる。これらに対して深井は古くから植え田だったところで、出耕作といって鴻巣分に田を作りにいく人が多かった。地が堅く牛馬も入れたわけだが、収穫量はかつては反当たり四俵程度だったといい、摘み田地帯と大差はなかったようである。
各地区での古老からの聞書きを総合してみると、摘み田は基本的には天水場の湿田で行われており、利点としては麦の収穫前に田摘みを済ますことができ、労働力の配分に都合よいことがあげられる。植え田だと麦の収穫、脱穀と田植えが同時期になったのである。しかし、田摘み前の田うない、代ごしらえや田摘み後の除草、株揃えには手間がかかり、大きな負担となっていた。摘み田から植え田への転換は、こうした摘み田の手間や戦後の土地改良がおもな理由にあげられ、ここには農業関係の機関からの改良指導も加えられたようである。地域的に見ていくなら、荒川沿岸地域の方が植え田への転換が早い傾向にあり、それが次第に東部地域へ及んでいった。東部地域では鴻巣市域の植え田地帯からの影響も考えられ、北本市域全体が一律的な変化をしてないのも大きな特色だといえよう。

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