北本市史 民俗編 民俗編一覧
第3章 農業と川漁
第1節 畑と畑作物
2 畑作物
(一)畑作物の種類種類と変遷
サクバタケでの作付は一年に二種の作物を作る二毛作が基本で、秋から翌春にかけて大麦・小麦、そして春から秋にかけてオカボやサツマイモを作る輪作が長い間続けられた。サツマイモは江戸時代末のサツマ問屋との取り引きに関する史料も残されており、幕末には盛んに生産されていたのが窺える。江戸時代の史料には、紅花(べにばな)や藍(あい)、木綿などの売買記録もみられ、商品作物として栽培も早くから行われていたことがわかる。
明治八年の『武蔵国郡村誌』には、表4のような物産が記されている。各旧村によって多寡はあるものの大麦、小麦、大豆、甘藷(サツマイモ)の生産高が高く、甘藷はどの村も移出している。他の作物としては、穀類ではアワ・ヒエ・ソバ・トウキビ、豆類では小豆・エンドウなどがあるが、生産高からすれば、いずれも自給的性格の強い作物であったのが窺える。しかし、たとえば石戸宿の藍葉・芋(里芋)・ナス、下石戸上の菜種、下石戸下の芋、古市場の大根・人参・里芋、別所の大根・人参・里芋、中丸の人参、宮内の大根などは、かなりの生産高で移出も行われていた。江戸時代の史料には大根・人参・里芋などはみえてないが、明治初期には市東部地域ではこれらが特産的な作物になっていたことが考えられる。北中丸などでは、人参大尽といって人参をたくさん作って大きくなった家もあるといわれている。人参、里芋といった作物は台地上の赤泥の土壌では良質なものはできず、窪地の土のよい所だと味がよく、大きなのがとれるという。
表4 明治初期の物産(明治8年『武蔵国郡村誌』より作成)
米 | 陸 稲 | 大 麦 | 小麦 | 大 豆 | 甘 諸 | ||||||||
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生産高 | 移出高 | 生産高 | 移出高 | 生産高 | 移出高 | 生産髙 | 移出高 | 生産高 | 移出高 | 生産高 | 移出高 | ||
石戸宿 | 221石9斗 2升 | 221石9斗 2升 | 517石5斗 | 170石 | 7石5斗 | 318石 | 59石 | 14700貫目 | 14700貫目 | 鶏卵42000粒(30000粒)、小豆45石、藍葉7200足(7000足)、芋12600貫、なす(220石8斗) | |||
下石戸上 | 151石8斗 | 100石 | 337石 | 345石8斗 | 200石 | 200石 | 210駄 | 小豆200石、粟210石(150石)、稗(100石)、菜種(363石) | |||||
下石戸下 | 130石7斗 | 30石2斗 | 10石4升 | 372石 | 162石8斗 7升 | 117石7斗 | 72石7斗 | 44石9斗 | 38000貫目 | 30000貫目 | 小豆13石6斗、菜種(8石2斗)、荏21石、胡麻1石5斗、芋6600貫、粟21石3斗、薪(3500束)、ソダ3800束 | ||
荒 井 | 80石5斗 | 15石 | 585石9斗 | 292石9斗 | 221石7斗 | 121石7斗 | |||||||
高 尾 | 116石1斗 | 16石 | 1373石4斗 | 680石 | 849石3斗 | 500石 | |||||||
古市場 | 86石5斗 | 36石5斗 | 105石5斗 | 20石1斗 | 32石4斗 | 12石9斗 6升 | 20石1斗 | 6300貫目 | 6300貫目 | 小豆1石9斗、粟8石1斗、稗10石、蕎麦8石1斗、大根2000貫、人参(280貫)、里芋(300貫)、白木綿(80反)、縞木綿(90反)、製茶(9斤) | |||
別 所 | 168石6斗 8升 | 84石6斗 8升 | 100石 | 20石 | 20石 | 18石6斗 | 6300貫目 | 6300貫目 | 鶏卵(1000粒)、小豆1石7斗、粟2石9斗、稗18石、蕎麦11石、大根(2000貫)、人参(300貫)、里芋(900貫)、胡麻(21貫)、綿子(30貫)、白木綿(90反)、縞木綿(100反)、菜種(8石)、荏油(2石5斗)、胡麻油(1石1斗)、製茶(4貫)、生糸(500目)、同綿(25貫)、油滓(1000貫) | ||||
花野木 | 40石 | 10石 | 50石 | 10石 | 15石 | 5石 | 10石 | 150駄 | 150駄 | 小豆15石(5石) | |||
中 丸 | 181石 | 40石 | 1200石 | 720石 | 500石 | 80石 | 3000駄 | 2800駄 | 人参100駄 | ||||
山 中 | 30石 | 3石 | 200石 | 40石 | 6石 | 250駄 | 250駄 | ||||||
本 宿 | 194石 | 22石 | 4212 駄 | 蕎麦10石 | |||||||||
宮 内 | 310石 | 62石4斗 | 240石 | 64石7斗 8升 | 69石1斗 8升3合 | 20000斤 | 繭200斤、糯米59石1斗9升6合、裸麦36石4斗、小豆10石2斗、粟24石、稗22石2斗、蕎麦30石5斗、エンドウ12石、大根75万斤 | ||||||
東 間 | 350石 | 48石 | 16000斤 | 13500斤 | 小豆3石5斗、粟22石5斗、蕎麦6石8斗 | ||||||||
深 井 | 133石5斗 7升 | 108石3斗 | 36石 | 565石9斗 5升6合 | 455石6升 | 121石3斗 9升1合 | 39石8斗 6升1合 | 123石1斗 8升 | 61石5斗 9升 | 9750貫目 | 6600貫目 | 小豆23石5斗、粟18石、稗5石、胡麻4石2斗、トウキビ3石 | |
合計 | 1650石7斗 7升 | 443石6斗 8升 | 330石3斗 6升 | 11281石2斗5升6合 | 2400石 9斗3升 | 1316石3斗 7升1合 | 418石2升 1合 | 1751石7斗 8升3合 | 688石2斗 9升 |
()内は移出高
『武蔵国郡村誌』の物産では、古市場や別所の木綿も注目される。木綿の栽培は一般的にいって河川沿いの微高地で行われるので、ここでも赤堀川沿岸の畑で作られたと考えられよう。しかし、明治初期には木綿栽培が行われても、現在の古老の世代では絶えてしまっていたようで、栽培法などは聞くことができなかった。
ヒエも『武蔵国郡村誌』には、下石戸上、古市場、別所、宮内、深井に記載があり、下石戸上では一〇〇石と多量に作られたが、現在では伝承が途絶えてしまっている。アワもかっては重要な食糧となっていたが、現在の古老の世代では自給程度で、昭和初期には次第に作られなくなったという。ソバも自家用程度だったといい、モロコシも昭和の初めまでで食べ料を作った程度だという。
写真2 出荷用種子取り風景(荒川)
北本市内では地区や家によって多少の違いはあるが、大小麦と陸稲を家の食糧とし、これらの残りとサツマイモ、養蚕で現金を得るといった農業が行われ、養蚕が盛んになる以前は市東部地域では大根・人参・里芋・木綿などが主要な換金作物だったのである。
写真3 出荷種子の検査風景(石戸宿)
石戸のトマトについては、『北本市史』第五巻近代・現代資料編に詳しい史料が掲載されているので概略のみ触れておく。トマトは古くは赤ナスと呼ばれ、石戸では昭和のごく初めころから作り始め、後にはトマト組合も組織して検査を行うようになり、三〇個入りの木箱に詰めて東京にトラックで出荷したという。トマトは麦を刈った跡に苗を植え付けた。作り始めたころは支柱を立てなかったので五センチメートルほどの小さい実しかできず、青臭く地元では食べる人は少なかった。その後、トマト工場ができてからは、ポテンローザという品種を作るようになり、支柱を立て、脇芽も欠いて消毒も行うようになって大きい実が取れるようになった。収穫は七月から九月初旬までで、一個ずつ薄紙に包んで木箱に詰め、隙間に籾殻(もみがら)を入れて傷まないようにして神田市場に出した。「トマト小唄」がつくられるほどになり、これをトマトを包む薄紙に印刷したりしたという。トマト工場というのはトマトクリームを作る工場で、組合で出資金を募って建設して、収穫期になると稼動し、生で出荷できないトマトをクリームに加工してピンに詰めて出していた。しかし、この工場はトマトクリームの売行きが悪く、数年で閉鎖になったといわれている。
写真4 トマトクリーム工場内
写真5 トマトクリーム工場
写真6 トマト包装紙