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第3章 農業と川漁

第4節 養蚕と桑苗生産

1 養蚕業の歩み

発 展 期
北本の市域で養蚕が始められた時期は明治十年代であったと伝承されるが、それを裏付ける資料は得られない。明治初期に編さんされた『武蔵国郡村誌』の産物の項を、北足立郡の村々毎に見ていくと、近隣の川田谷村(桶川市)は繭七八石・蚕卵紙五一〇枚、田間宮村(鴻巣市)は繭二一石・蚕卵紙四一三枚の産額の書き上げがあるが、現在の北本市域の村には繭の生産も蚕卵(種)紙の生産も記載がない。
しかし、明治二十四年六月に中丸村字北本宿の清水家で記された『春蠶蟻量八匁飼育日誌』の緒言に「本表ハ養蠶法研究之為メ明治廿四年度飼育春蚕総蟻量廿匁之内初日掃立之分蟻量凡八匁卜認メ自當日至上簇飼育中雜事ヲ誌シタルモノナレバ素ヨリ多少之差異ハ辞セザレ共爾后蚕児飼育二臨ミ聊カ是レガ標準トナルアラバ幸甚」とあり、地域の養蚕業の先駆者としての試みへの、意気込みが読み取られることから、伝承にあるように明治十年代には養蚕に取り組む農家があらわれていたようである。
北本市域で養蚕が始められてから暫(しばら)くは、春蚕一回をいかにうまく飼うかが問題で、明治後期までは秋蚕を飼うことまでは、とても手が回る状態ではなかったようである。年一回の養蚕ですら当り外れが大きく、技術が熟せぬ投機的な養蚕であった。大正時代になっても、石戸村では「味噌汁と初秋の蚕は当りっこなし」と皮肉られるほど、秋蚕の飼育を安全に行うための技術の普及は難しかったのである。年間の収繭量を増やすには、春蚕一回の養蚕に動員できる労働力・施設には限りがある。そこで、年間の回数を増やす方向で養蚕業は発展し、そのための養蚕の普及、技術向上を目的とした動きが、明治後期に盛んに行われるようになったのである。北足立郡が養蚕を奨励しだしたのもこのころで、明治三十三年にはそのために北足立郡農会に郡費の補助をしている(『北足立郡誌』大正十三年)。
明治四十五年に編さんされた『石戸村郷土誌』(石戸尋常高等小学校)の「蠶業」の項はその当時の様子を次のように記している。
本村ハ明治三十四年頃迄ハ投機的ノ養蚕流行シ一獲千金ヲ夢見ツゝアリシヲ三十五年以来講演二於テ無謀ノ飼育ヲナサズ宜シク労力、資本器具桑葉ノ量二鑑ミ強メテ安全ニ収繭ヲ得ル様指導シタルヲ以テ村民皆之レニ倣フニ至レリ加之消毒器、消毒薬ノ共同講入ヲ実行シ病毒ノ撲滅ニ力ヲ致シタルヲ持テ数年来蚕業ハ安全ヲ奨励シ共飼育漸ク盛ニナリタレ供春蚕用桑樹ヲ摘葉スルヲ以テ自然樹勢ヲ弱メ春蚕ニ大害ヲ及ボスヲ恐レ秋蚕専用桑園ノ必要ヲ鼓吹セシ結果年一年此ノ種ノ桑園ノ増加ヲ見ル卜共ニ秋蚕飼育モ亦盛ナルニ至レリ

秋蚕奨励のために明治三十七年に伝習所が設けられ、秋蚕が普及するにつれ、秋蚕用桑園(そうえん)も増加していったとされ、他に明治四十三年には桑園は八九町、春蚕飼育戸数は四四〇戸、秋蚕飼育戸数はニ一六戸となっていたことが記されている。
こうして春蚕一回から、秋蚕つまり初秋蚕を加えた年二回となり、大正期には晩秋蚕を加え年三回となった。この年三回の養蚕の組立ては、次のようである。
春蚕は五月お節供のころに掃き立てをする。四〇日ほどで上蔟(じょうぞく)する。六月初めに上蔟するとすぐ麦刈りとなった。
初秋蚕は七月二十五日ころから八月一日にかけて掃き立て八月二十日ごろ上簇する。八月末に収繭。
晩秋蚕は八月二十五日ごろに掃き立て、九月下旬お彼岸過ぎに上蔟する。十月末に収繭。
この日程は気候や桑の具合い、また家の都合で多少の達いはある。特に初秋蚕はお盆にかかり、八月上旬に掃き立てると、お盆に四眠起きて、桑の食い盛りとなる。そこで七月二十日ごろに掃き立て、八月十日ごろお盆前に終らせてしまう家もあった。特に新盆の家では客があり、初秋蚕はやりきれぬので、夏蚕をしていた。
夏蚕は桑園の関係で通常あまりしない。祇園(ぎおん)前の六月二十五日ごろに掃き立て、七月十七、八日に上簇する。春蚕を終えたばかりで、桑園に余裕があり養蚕を大きくやる家でおこなっていた。
中丸地区では養蚕をはやくやめた家が多いこともあり、年間三回が通常であり、四回する養蚕農家の割合は少なかった。それに対し、石戸地区で現在も養蚕を手掛けている家では年間四回行っている。春・初秋・晩秋に加えて、晩晩秋蚕を手掛けている。
晩々秋蚕は九月五日ころ掃き立て、十月上旬に上族(じょうぞく)。繭の出荷はゆっくり繭かきして、十月下旬の麦蒔き後であった。

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