北本市史 民俗編 民俗編一覧

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第3章 農業と川漁

第4節 養蚕と桑苗生産

2 養蚕の技術

蚕室と蚕籠
養蚕農家の規模にもよるが、大正期のごく一般的な養蚕農家は、八畳間の座數を蚕室(さんしつ)に当てていた。
そこで養蚕の期間は、家人は廊下や土間で寝るという具合であった。しかし、中には一階は三間に六間の蚕室、そして二階はとっぱらいの仕切りなしの蚕室で、規模を大きく行う養蚕農家もあった。こうした家は一字に一軒くらいのものであったが、給桑や上簇のために、養蚕をしない農家の人を頼み、カイコビョウ(蚕日雇)を雇っていた。
一般的な養蚕農家の蚕室は、蚕の時期になると、まず畳を上げ、カイコダナ(蚕棚)を竹で組み立てることから始められた。この棚に蚕をやとう(飼う)蚕籠を立体的に収納する棚であった、蚕室を有効に利用する養蚕法で、タナ(棚飼)ガイと呼ばれる。中丸では、大正中ころに養蚕教師が来て指導していたと記憶されている。棚の仕組みは、蚕籠を差し入れる棚が、一〇段ないしは一二段で一組で、横三組連なって一列となる。八畳の座敷にはそれが二列並び、蚕籠は一列で三〇~三六枚、二列で六〇~七二枚入れることができた。
蚕籠はエビラまたはヒラカゴ(平籠)と呼ばれ、最も普及していたのがサンジャクカゴ(三尺籠)である。これは三尺四方の浅い籠で、 ハンカゴ(半籠)とも呼ばれるものであった。あまり使われなかったが一辺がその倍ある大籠にたいして呼ばれるものであった。そして、大正末ころにニゴサン(二五三)と呼ばれる縦横が二尺五寸に三尺という小ぶりの籠となった。それにともなって棚の幅も狭められることから、一列が三組で一杯であったのが、四組つないで八畳の蚕室に組立てられるようになった。一組の棚が増えて一列で蚕籠が一〇~一ニ枚、二列で二四枚増えることになった。また、先に述べたような規模の大きな養蚕農家では、シチブカゴ(七分籠)と呼ばれる大き目の籠が使われた。これは、縦横が三尺・三尺七分の寸法であった。石戸宿では、この蚕籠を作る籠屋がおり、農家であったが、秋から翌春まで籠作りや修繕をしていた。

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