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第3章 農業と川漁

第4節 養蚕と桑苗生産

2 養蚕の技術

蚕の品種と種紙
蚕の品種は桑の品種に比べあまり名称が記憶されていない。日支(交配)・日欧(交配)といったものだったが養蚕農家は種紙(たねがみ)で蚕種(こだね)を買うので名称の印象が薄かったという。しかし、黄繭種のような特異なものは記憶されている。これは現在では殆ど見ることのできない品種で、黄色い繭を作る蚕で病気に強い品種であった。
種紙の製造をする種屋は石戸に一軒、高尾に三軒あった。養蚕農家はこうした在地の種屋から買う家もあるが、群馬方面の種屋の仲介を商売として回って来る人に注文する家もあった。また昭和になり、信州岡谷の丸興製糸が北本宿に、上田蚕種が深谷に出張所を設けてからは、そこで催青させ、掃き立ての状態にして各養蚕組合を通して配布した。
種紙の形状は、ヒラヅケ(平付け)、ワクヅケ(枠付け)、バラと変わってきた。明治時代は平付けで、ボ—ル紙のような厚紙一面に卵が付いており、紙の大きさには五分と七分の二種類あった。大正時代に一枚の紙に二八並んだ丸い枠の中に卵を生ませた枠付けとなる。そして、昭和十年ころからは大きな繭の形や、周囲に低い枠がついた半紙一枚の大きさで種紙一面に卵をうませたバラ付けで来るようになった。種紙の掃き立て単位は昭和五年ころまでは枚数で呼び、その後グラムで呼ぶようになった。この時、種紙一枚が一〇グラムで昭和三十年ころからはバラ付けを箱単位で呼ぶようになった。そして一箱は一〇グラムであり、二万粒の卵が付いているというので、一箱二マントウ(二万頭)といい表された。
そして、一人で世話ができるのは種紙一枚で、種紙一枚から繭八貫目、桑園(そうえん)は一反で種紙一枚半~二枚というのが目安であった。

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