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第3章 農業と川漁

第4節 養蚕と桑苗生産

2 養蚕の技術

稚蚕共同飼育
蚕の当り外れは、稚蚕が丈夫に育つかどうかで決まるという。稚蚕を飼う環境により、稚蚕が桑をよく食うかどうかの違いが出、それが蚕の成育に大いに影響する。そこで、密閉飼のような方法が考案されるのだが、その稚蚕を共同で良い環境で飼おうというのが、稚蚕共同飼育である。昭和五年には農林省により「稚蚕共同飼育設置奨励規則」が出されるが、第二次大戦以前は技術も設備も普及せず、形だけの稚蚕共同飼育であった。それは大きく養蚕をする農家や、養蚕がうまいといわれる農家に、蚕と桑を持ち寄るいわば「持ち寄り飼育」であった。北中丸でも昭和十五年ころ、稚蚕共同飼育を始めているが、飼育場はもよりの農家で、参加したのも幾軒でもなかった。また、共同飼育にした理由として同地区では、蚕種が大宮の片倉製糸から来ており、種が同じなので、家による出来不出来の差が少ないように、同じ日数で繭が出せるようにすることが目的であったとしている。共同飼育には製糸会社も力を入れ、飼育場には会社から派遣された養蚕教師が毎日見回りに来ていたといわれる。
持ち寄り飼育ではなく、施設を設けて稚蚕共同飼育を本格的に行うようになったのは第二次大戦後である。石戸地区は昭和二十三年ころに高尾の氷川様の所に設け、中丸地区は昭和三十年ころに深井に設けた。
なお、中丸地区が戦前に稚蚕共同飼育場を設けたのは、昭和十五年に浦和から移転してきた丸興製糸の出張所へ、繭を出すようになってからだという。稚蚕共同飼育場では当番の農家が桑をやり、二眠までして各家に分けた。
当時は、石戸地区・中丸地区それぞれの養蚕組合で稚蚕共同飼育場を一カ所ずつ設けていたが昭和四十年ころ、高尾の稚蚕共同飼育場に合併された。それは、中丸地区の養蚕農家の減少により組合が合併され、北本養蚕農業共同組合となったためである。現在では中丸地区の養蚕農家は皆無となってしまい、石戸地区の養蚕農家も少なくなったので、上尾の大石や桶川の川田谷の生産者も加わり稚蚕共同飼育を維持している。

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