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第3章 農業と川漁

第5節 労働と休日

1 労働慣行

共司労働
農業の機械化が進み、それにともなって兼業農家が多くなり、現在では他の家々と一緒になって農作業を行うことがほとんどなくなった。田植え・稲刈り・麦蒔き・麦刈りなど、それぞれの農作業はどの家でも同じ時期に行うが、兼業化が進んだことによって自家の都合が最優先となり、各種農業機械が普及して少ない労力で仕事をこなせるようになったからである。
今のように農業機械が普及する以前は、当然ながらすべての仕事を手作業で行ったので、一つ一つの仕事には時間がかかり、また、自家労力だけでは行いきれないこともあった。一方、稲作や麦作ではそれぞれの作業に適期があり、時期によって決められた仕事があった。そこで各農家では自分の家の労力だけで適期に仕事が終らない場合は、他の家々とイイ(結い)仕事といって共同して仕事をしたり、何かの理由があって仕事が遅れている家があるとスケといって手伝いにいったり、あるいは近所の人を臨時に雇って仕事を進めたのである。
イイ仕事というのは、同じ量の労力を他家と交換しあうことで、テマガワリとも呼ばれた。手間というのは労力のことである。何の仕事でも行ったわけでなく、前述のように適期が限られた、たとえば摘み田の田摘みや麦のボウウチ(棒打ち)などでイイが組まれた。親戚や近所の家と組み、各家から同じ人数が出てそれぞれの家の仕事をこなしていくのである。
もっとも頻繁にイイ仕事が行われたのはボウウチで、これはモヤイブチともいわれた。暑い時期の日中の仕事で、一軒だけでは能率も上がらなかったので、二、三軒あるいは四、五軒の家々からクルリ棒を持って集まり、仲間の家のボウウチを次々としていった。こんな時には麦ぶち唄(麦おし唄)も出て、調子を合わせながら行い、自家のボウウチが終るとみんなに酒とウドンなど振舞った。こうしたイイ仕事を組む相手は、働き手や耕作反別といった農業の規模が同じ程度で、気ごころが合った家である。規模が違えば仕事量は違うし、気ごころが合わなければ仕事が順調に進まないからである。
摘み田の田摘みは前に述べたように、風が吹き始める前に終えなければならなかった。朝早くから仕事を始めるにしても、限られた人数では終らないこともあり、同じように隣近所の家とイイを組んでおおぜいで一気に仕事を進めたのである。
イイ仕事では同じ人数だけ手間を交換しあうのが原則なので、イイに出る人はだれでもいいわけではない。一方から大人が出て、もう一方は子どもではつりあいがとれないことになる。たいていは一人前の人が出たのであり、そこには不文律ともいえる基準があった。男なら、たとえばエンガで一日に畑が三畝耕せるとか、田うないなら一日にシホンマンノウで一反耕せる、あるいは四斗入りの米俵が担げるとかが一人前の基準となっていた。
イイ仕事はもっぱら労力だけを出し合った共同だったが、昭和初期には石油発動機が出始め、これで麦や稲の脱穀をするようになった。当時は一般的には足踏み脱穀機を使っており、石油発動機を持つ人はごくわずかだった。そこでこの時代には、数軒が共同して発動機や脱穀機を借り、各家の脱穀をみんなで順番に行うこともあった。単なる労カだけの共同から機械を中心にした共同も行われるようになったのである。
スケというのは一方的に仕事を手伝うことである。たとえば同じ組の家に病人がいて、仕事が思うようにはかどってないと、早く片付いた家の人がスケに行くわけである。仕事が終った時には何かをご馳走になることがあっても、困ったときにはお互い様ということだったのである。田うない・田摘み・麦刈り・麦蒔き・稲刈りなど適期のある仕事で行われた。
仕事が遅れた時に臨時に人を雇えるのは、余裕のある家だった。スケを貰うと気を使うからお金を出してということで、麦蒔き、麦刈りなど必要な時に頼んだ。戦後に農地解放が行われるまでは、家々は耕地所有に大きな差があり、耕作地の少ない家の人をヒョウトリ(日傭取り)に頼んだのである。また、養蚕はすべての家でしていたわけではないので、養蚕の時期になるとカイコビヨウ(蚕日傭)といって、女の人が蚕の手伝いに行った。カイコビヨウに出ることは、養蚕をしてない家ではむしろ当然のことでもあった。

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