北本市史 民俗編 民俗編一覧

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第3章 農業と川漁

第5節 労働と休日

2 休日と農耕儀礼

蚕祝いと蚕神
養蚕は農家にとって重要な現金収入であり、繭の出来具合いは家計に大きな影響力をもっていた。このような経済的な意味とあわせて、養蚕技術が未熟な時代は、蚕が飼育途中で病気になり、全滅してしまうこともあった。
蚕が無事に繭を作り、しかも立派な繭であることは大きな喜びだった。前記した正月の繭玉もこうした願いをこめた儀礼であり、さらに養蚕の過程でも蚕の無事な成育を願い、収繭を祝う儀礼が行われてきた。
養蚕では蚕祝いとか熟蚕祝い、お蚕あげなどといい、繭を取ると盛大なお祝いが行われたが、丁寧な家ではカイコヤスミ(蚕休み)といい、蚕が初眠・二眠・三眠・四眠に入ったときにも、それぞれブチウドンなどを作って祝った。ブチウドンは家で打ったうどんのことで、これは蚕室に貼った蚕神のお札にも高御膳で供えた。
蚕が起きて桑を食べる間は、桑摘みや蚕糞の処分などで忙しく、眠りに入ると一段落といつたとこで、蚕休みはほっとする時でもあった。
ひと区切りずつ成長を確かめながら世話をし、蚕をマブシに入れ、繭が作られ、繭搔(か)きをして出荷すると蚕祝いとなる。養蚕を大きくおこなった家では、蚕の上蔟がひと仕事で、家族だけではやりきれないので人を雇った。近所の人を頼んだり、石戸宿などでは川田谷(桶川市)の周旋人に頼んで伊奈町周辺の人を雇った。蚕祝いにはこうした人たちも招き、ボタモチ、テンプラに米のご飯などのご馳走を作り、酒も出して祝った。普段は麦飯ばかりだったので、こうしたものでもご馳走だったのである。家族だけで養蚕をおこなった家でも蚕祝いはしたが、この場合は特別のご馳走はせず、何かかわり物を作って祝う程度だったという。
蚕の神としてよく知られているのは、高尾の氷川神社下にある弁天社である。これは東京の千住から迎えてきたと伝えられ、宝のいただける守護神で、希望者が養蚕講(弁天講)をおこなっていた。四月上旬に祭りがあり、役員が集まって神主が祝詞をあげ、養蚕のお札を出した。「養蚕守護神」と記したお札であり、各家ではこれを蚕室に貼っておいた。蚕休みにはこのお札に供え物をするのである。また、蚕祝いの時には、できた繭を五つとか七つ持って弁天様に行き、「いい繭がとれましたので、またいい繭をとらせてください」と願いながら供えた人もあった。
蚕神は高尾の弁天様の他に確認できていないが、家でとった初繭を氏神(屋敷神)として祀る稲荷に供える場合もあった。

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